今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 分断された都市ニコシア(Nicosia)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニコシア(Nicosia)について勝手に語ります。

     

     

    ひとつの国がふたつの国に分断されている状態というのは、異常なことといえます。それでも日本のすぐ隣には、韓国と北朝鮮という分断国家があるので、日本人には比較的馴染みがあるともいえるのかもしれません。
    ただ、ひとつの都市がふたつの国家に分断されるというのは、あまりイメージできないでしょう。
    過去にはドイツのベルリンが東西で分断され、1990年に統一されたことがありました。分断した場所には壁ができて、「ベルリンの壁」は東西冷戦時代を象徴するものとなっていました。

     

    実は現在でもふたつの国に分断されている都市が、世界にはひとつだけあります。
    それがニコシアという都市です。
    キプロス共和国の首都であるとともに、北キプロス・トルコ共和国の政庁所在地でもあるのです。ただし、北キプロスを国家として承認しているのはトルコだけで、他の国々は国として認めていません。
    それにも関わらず、言語、通貨、宗教など、南北キプロスで異なっていて、別の国として機能していることは間違いありません。
    この南北分断というのは、ベルリンのように東西冷戦の名残ではなく、ギリシャ系住民とトルコ系住民との衝突によるものです。
    第二次大戦後、イギリスが撤退してのち、ギリシャ系住民はギリシャへ、トルコ系住民はトルコへ組み入れられることを望んだものの、これが火種となってしまいました。話し合いで解決されず、ついに武力行使にまで至ることになりました。
    その結果、トルコ系住民は島の北部に移動し、1983年に「北キプロス」として独立を宣言したのです。

     

    現在では南北の境界には「グリーンライン(南北分断線)」と呼ばれる緩衝地帯が敷かれています。
    これは国連によるもので、ニコシア市内もグリーンラインによって南北分断されてしまったのです。最初は、南側のキプロス共和国から北キプロスへの通行だけが可能でしたが、2004年からは南北間の通行が自由化されました。
    ニコシア市内には、グリーンラインを越えるためのクロスポイントが7ヶ所あり、その中で2ヵ所は徒歩でのみ行き来することができるものです。
    ベルリンの分断と同じように、繁華街の中央地域がグリーンラインで行き止まりになった場所もありました。ポツダム広場が東西で分断されたのと同じように異様な光景でしたが、南北双方のイミグレーションオフィスでパスポートのチェックをするだけで、通行できるようになりました。これがレドラ通りのクロスポイントです。

     

    キプロスでは紀元前2000年ころからワインが造られてきたといわれます。
    以前にはキプロス産の甘口ワイン・コマンダリアを取り上げたこともありました。

     

    アフロディーテのキスより甘いコマンダリア

     

    エジプト第26王朝、アケメネス朝ペルシア、プトレマイオス朝エジプトなど、古代には当時の覇権国家に支配され、のちにローマ帝国の属州となったキプロスは、地中海での補給拠点として重要な島でした。
    ブドウ栽培からワイン生産までも行いつつ、地中海の重要な中継地としての運命をたどりました。様々な国の支配を経て、最終的にギリシア系とトルコ系の住民は同居した状態で独立を果たしました。
    それがキプロス紛争により分断された国となり、首都もふたつの国に分かれました。現在は治安が安定しているようですが、歴史あるワインは平穏な場所で飲みたいものです。

     

  • エスファハーン(Eṣfahān)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエスファハーン(Eṣfahān)について勝手に語ります。

     

     

    もしかしたら日本では「エスファハーン」より「イスファハーン」と表記したほうが一般的かもしれません。
    それはさておき、この都市はニュースでおなじみになっているイランの都市で、「イランの真珠」と例えられるほど美しいといわれています。
    イランといえばイスラム教の国で、中でもシーア派の人たちだけのイメージがあるかもしれませんが、実は必ずしもそうではないようです。ペルシア時代から続くゾロアスター教や、キリスト教でも東方正教会からアルメニア使徒教会、さらにはネストリウス派までいるといいます。
    飲酒を禁止しているイスラム教と違い、キリスト教にはワインが必需品です。イランは国としては禁酒国となりますが、実際にはキリスト教関係だけでなく、それなりに流通しているそうです。

     

    エスファハーンは、紀元前6世紀にユダヤ人が居住し、それが町となっていったという説もありますが、歴史を遡れるのはアケメネス朝の時代だといいます。
    イスラム帝国による征服は7世紀ですが、この時代にはすでに町の原型が形作られていたようです。
    アルメニア使徒教会を信仰するひとたちは、それより古く、西暦301年にはキリスト教に改宗していました。その民族はイランでも最も古くから居住していました。
    改宗前の宗教はミトラ教を始めとする古代の諸宗教でした。
    16世紀になるとアルメニア教徒の居住地区が定められました。

     

    ユネスコにより世界遺産に登録されているのは、キリスト教の施設ではなく、イマーム・モスク(王のモスク)などがあるイマーム広場などで、これは新市街にあります。
    新市街はサファヴィー朝の王アッバース1世が建設した街で、旧市街は16世紀以前に建設されていました。
    新市街の王の広場では、アッバース1世の時代から、いわばイベント広場のような要素がある場所でした。青空市などもそうですが、外国の使節との謁見場でもありました。また、公開処刑もここで行われたといいます。
    スポーツ観戦もここで行われ、レスリングなどの競技場でもあったといいます。

     

    17世紀末になると世界的規模の都市にまで成長し、人種・民族も多種多様になっていきました。具体的にはトルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人などが居住していました。
    宗教的にも種々雑多でしたが、モスクは最盛期に162もあったといいます。
    しかし18世紀になって、エスファハーンは破壊され、サファヴィー朝も滅亡してしまいます。アフガニスタン人の侵攻でした。
    新市街は衰退し、耕作地になっていきました。
    復興が開始されたのは19世紀になってからで、ガージャール朝によります。ただ首都ではなく、地方都市としての復興でした。
    20世紀にはパフラヴィー朝となり、エスファハーンは近代産業の都市へと変貌していきました。
    第二次大戦を経て、イラン革命もありましたが、人口は急増し、観光都市としても発展していきました。

     

    時節がら物騒なイメージの強いイランですが、エスファハーンは観光客も多く、一度は足を踏み入れてみたい都市です。

     

  • メキシコ合衆国(Estados Unidos Mexicanos)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はメキシコ合衆国(Estados Unidos Mexicanos)のワインについて勝手に語ります。

     

     

    メキシコの酒といえばテキーラが有名ですが、実はワインも生産されています。
    しかもアメリカ大陸で生産されるワインとしては、最も古い歴史を持っているのです。
    では、いつからワインが生産されていたかというと、1574年にまで遡ることができるのです。この時代ですから南米も含めてアメリカ大陸初となります。
    ワインは、スペインからの移民たちが行い、新大陸の気候や土壌にあったブドウ栽培に成功しました。それにより高品質なワインが生産できるようになったのです。
    しかし、安価に生産できるワインは、本国のスペイン産ワインの売れ行きを悪化させることになることから、フェリペ2世によって、メキシコでのブドウ栽培に規制をかけることにしてしまいました。それだけ評判のよいワインをメキシコで生産していたということでしょう。
    スペインから独立したのは1810年で、ここからワイン作りが本格的に稼働し、現在でも続いています。

     

    現在のメキシコでは、ワイン生産メーカーが200以上あるといいます。
    主な輸出先は隣のアメリカですが、日本にも多く輸出しているといいます。ただ、あまり見かけないせいか、馴染みのない人も多いことでしょう。

     

    メキシコというとスペインの植民地以前にあったアステカ帝国(Ēxcān Tlahtōlōyān)を思い浮かべる人もいるでしょう。メソアメリカ文明の国家です。
    また、もっと古いものとして、テオティワカン(Teōtīhuacān)遺跡のピラミッドも連想できます。
    こちらは太陽のピラミッド、月のピラミッドがあり、南北5キロに「死者の大通り」があって、そこを基点として様々な施設が配置された宗教的な計画都市です。紀元前2世紀ごろに造られた都市といわれ、最盛期の人口は20万人を超えていたようです。しかも下水道まで完備された都市だったようです。
    しかし人口が集中したことにより、7世紀にはいると衰退し、ついに廃墟となってしまいました。直接的な衰退の原因は不明ですが、火事、森林破壊、旱魃、内乱、メスキタルの侵入など、多くの説があげられています。

     

    メキシコ麻薬戦争を記憶している人もいるかもしれません。
    これは麻薬組織(カルテル)による縄張り争いや、麻薬カルテルと麻薬密売を取り締まるメキシコ政府との武力による紛争です。
    現在、アメリカで流通している外国製麻薬の中で、メキシコの麻薬カルテルが関係する割合は約70%程度ともいわれています。ヘロインではメキシコの生産は少ないものの、中継地としてアメリカへ供給している量が多く、大麻やメタンフェタミンでも供給元となっています。
    公的な組織とカルテルの癒着もありました。そのためカルデロン政権のときは、麻薬カルテルと癒着した警察幹部、州知事などを軒並み逮捕していきました。この強硬姿勢は、取締に軍を導入してることからも顕著に現れています。
    しかし、その結果としてカルテルによる暴力事件などにより死者も激増していき、かなり深刻な状況になったともいわれます。

     

    ちなみにですが、日本では憲法改正はかなりのハードルが高いものですが、メキシコは世界最多の憲法改正国です。建国以来170回を超える改正を行っています。

     

    さて、メキシコのワインに話を戻すと、ブドウ栽培面積は世界21位だそうです。面積は約4万ヘクタールですが、ワイン用のブドウは1割程度のようです。
    ブドウの品種としては、黒ブドウではカベルネソーヴィニヨン、メルロー、シラー、ジンファンデルなど、白ブドウだとソーヴィニヨンブラン、シャルドネ、ヴィオニエなどになります。アメリカのカリフォルニアワインと共通しています。地理的に納得できます。
    味はというと、個人の好みがあるので何ともいえませんが、カリフォルニアワインより果実味が優しい感じがします、ただし、あくまで個人の感想です。

     

  • アフガニスタン・イスラム共和国

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアフガニスタン・イスラム共和国について勝手に語ります。

     

     

    アフガニスタンといえば、昨年、ペシャワール会現地代表だった故中村哲氏の銃撃テロ事件をはじめ、タリバーンやISIL(イスラム国)などの反政府武装勢力が依然として勢力を保っている危険な国という印象を持つことでしょう。
    武装した犯罪グループも多く、身代金目的の誘拐事件なども多発しています。一般的な犯罪に加え、テロや誘拐も多いことから、外務省では「レベル4:退避してください。渡航は止めてください」として、日本人の渡航を止めるように勧告しています。
    そのような意味で、ワインのブログに登場する国としてはふさわしくないと思われるでしょう。
    確かにその通りであるのは承知していますが、アフガニスタンはかつて、ワインも生産していた国なのです。ブドウの栽培も活発に行い、以前は干しブドウの輸出は世界最大規模だったともいわれます。
    現在はワインだけでなく酒類の販売は厳しく制限され、闇でワインを手に入れたとしても、そのワインは品質が最悪で、価格もとんでもない金額だといいます。ウィスキーに至っては偽アルコール飲料だそうです。何にしてもアルコール類は闇の飲料であることは確かです。

     

    アフガニスタンの歴史は、侵略の歴史ともいえます。
    紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに支配され、紀元前330年にはアレクサンドロス3世に侵攻されました。その後にセレウコス朝シリアとマウリヤ朝インドなどが支配しました。
    グレコ・バクトリア王国、インド・グリーク朝、インド・スキタイ王国、インド・パルティア王国、クシャーナ朝、そしてサーサーン朝に至ります。

     

    サーサーン朝(Sassanid)のワイン

     

    その後も、クシャーノ・サーサーン朝、アフリーグ朝、キダーラ朝、エフタル、カブール・シャヒ朝などが支配し、次にイスラム社会へ入っていきます。
    正統カリフが終わると、ウマイヤ朝、アッバース朝、ターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝、ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝、ゴール朝となります。
    ゴール朝が崩壊すると、アフガニスタンはアラー・ウッディーン・ムハンマド(ホラズム・シャー)が支配しました。1219年にはバグダードにまで進軍しましたが、逆にチンギス・ハンのモンゴル帝国軍によりアフガニスタンの諸都市が占領されてしまいました。
    その結果、ホラズム・シャー朝は滅亡しました。

     

    イルハン朝やクルト朝、さらにはモンゴル帝国復興を目指していたティムール朝などの影響を受け、次第にアフガン王家による統治へと進んでいきました。
    ここまでの歴史の流れを見るだけでも、現在のテロが多い土壌があるのが分かるかもしれません。
    現在はアフガニスタン・イスラム共和国で、2016年には、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがタリバンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立したことが記憶に新しいかもしれません。

     

    アフガニスタンを語るのは、かなり難しい部分がありますから、日本でワインを飲みながら複雑な歴史を紐解いていくのが良いかもしれません。また、もし機会があればこの内容の続きも投稿するかもしれません。

     

  • ブダペスト紀行 4(Budavári Palota)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行4回目です。
    ゲッレールト山の麓からトラムに乗車し、ドナウ川に沿って北上しました。

     

     

    19号線のトラムは昔ながらの車体で、1本前に発車した最新型と違って、ソ連衛星国の時代を感じさせるものでした。旅行者には旧型のほうが趣ある感じといえるかもしれません。
    ドナウ川に沿ってゆっくりと、ブダ王宮(Budavári Palota)のある丘の下を走っていきました。どこで降りるのがよいかわからないので、セーチェーニ鎖橋(Széchenyi Lánchíd)が右手に近づいてきた場所で下車しました。
    この橋は、ブダペスト市内ではドナウ川に最初に架かけた恒常的な橋で、これが完成する前は「舟橋」といって、舟を並べてその上に橋を渡したものや、フェリーのようなものを使った「飛び橋」などしかありませんでした。
    19世紀になってようやくこの橋が完成したことで、西岸のブダ地区と東岸のペシュト地区(ペスト地区)が結ばれ、利便性が格段に向上したのでした。

     

    橋の反対側は高台に位置にする「王宮の丘」で、この丘が独立した街のようになっていて、ブダ王宮、マーチャーシュ教会、漁夫の砦、三位一体広場などのブダペストの主要観光スポットが集中しています。
    王宮の丘へ登るには、最も手軽なのがケーブルカーです。セーチェーニ鎖橋の先にあります。
    しかし、長い行列で、乗車できるまでに何時間かかるかわからないほどでしたので、すぐに乗車を諦め、歩いて登ることにしました。暑い日でしたが、日本より湿度が低いので、何とか登れると判断しました。
    ケーブカーの左手に丘に登れる場所がありましたが、それに気づかず、反対側から登ると観光客の姿もなく、比較的快適に登ることができました。坂道が終わり、平坦な場所に石畳が広がる場所まで来ると、その先は王宮です。
    歴代の王が居城してきた王宮ですが、現在は「国立美術館」、「歴史博物館」、「軍事歴史博物館」になっています。

     

    現在の王宮は第一次世界大戦、第二次世界大戦で被害を受けたのち、20世紀半ばに修復された姿です。
    この王宮は破壊と再建の歴史ともいえます。
    1241年にはモンゴル軍の攻撃で王宮は破壊されました。当時は木造の城壁でした。
    これを石造で再建したのがアールパード朝のベーラ4世で、続いて14世紀になると、アンジュー家のハンガリー王ラヨシュ1世によってゴシック様式の王宮に改造されました。
    ところがこれも17世紀に入るとオスマン帝国によって破壊されてしまいました。
    18世紀にはハプスブルク家が支配し、王宮も再建されました。このときにゴシックからバロック様式へと改造されました。
    しかしこれも長く続かず、19世紀半ばには火災により被害を受けたのです。

     

     

    この王宮では、15世紀のマーチャーシュ1世が王だった時代、イタリアから多くの職人や芸術家が多数集まっていました。このときがハンガリー・ルネッサンスの時代でした。
    ハンガリーの若者に対しては外国へと留学させることを積極的に行いました。
    また、ポジョニ(現在のブラチスラヴァ)には大学を設立し、王立図書館には写本が2,000巻も集められたといいます。

     

    王宮からはドナウ川が一望できます。
    セーチェーニ鎖橋は眼下に見え、ゲッレールト山もすぐ近くに見えます。
    さすがにここは大勢の観光客が行き来しています。アジア人は少ないものの、やはり中国人は団体で騒いでいました。日本人は見かけませんでした。
    王宮を堪能したあと、すぐ隣に行くと、そこは大統領官邸でした。衛兵が立っています。これも見て損のない光景でした。

     

    この次はマーチャーシュ教会や地下迷宮へ行こうと思いましたが、とりあえず昼食にすることにしました。

     

  • 世界で4番目に大きな島(Repoblikan’i Madagasikara)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマダガスカル共和国(Repoblikan’i Madagasikara)について勝手に語ります。

     

     

    アフリカ大陸の南東部から約400km沖合いの西インド洋に浮かぶマダガスカル島は、日本の面積の約1.6倍の広さがあり、世界で4番目に大きな島です。
    マダガスカルはフランスの植民地だったことからワインはそれなりに生産されています。しかし、現地の人はそれほど飲む習慣はないようで、ワイン需要は旅行客向け、その中でも特にフランスからの観光客相手のものといわれます。
    比較的気軽に購入できるようで、多く流通しているのは赤とロゼの中間のグレイワインが中心だそうです。

     

    マダガスカルの宗教は、キリスト教と現地の伝統宗教が中心で、イスラム教はごくわずかです。そのため飲酒を禁止しているわけではありません。
    キリスト教はカトリックよりプロテスタントが若干多いといいます。
    しかし過去には迫害もありました。ラナヴァルナ1世という女王の時代で、1835年のことでした。ただこの迫害は短く、2代のちの女王であるラナヴァルナ2世は、即位するとすぐにキリスト教に改宗したのです。
    絶海の孤島ともいえる場所で普及したマダガスカルのキリスト教は、独自の変化を見せました。島の伝統的な信仰と統合されていったのです。その代表的な部分が先祖崇拝で、キリスト教による死者への祝福ののちに、マダガスカル伝統の葬儀もあわせて行われたりしているそうです。
    これは島の伝統的宗教儀式で「ファマディハナ」と呼ばれる再葬儀礼を統合したもので、世界のどのキリスト教葬儀とも異質なものです。このファマディハナとは、先祖崇拝の現れとして、尊敬する先祖の記憶を寿ぐことを意味します。先祖尊崇をする限り、先祖たちは現在の生活者を守り、良い影響を及ぼすとされています。

     

    また、マダガスカルは謎の島という側面もあります。
    現在、未だマダガスカルに人がいつから居住していたのか謎のままなのです。
    地球上にある主たる陸塊の中で、人が最後に定住した場所であるともいわれています。
    ほぼ確実視されているのは、1世紀前後にボルネオ島から人が移り住んだのは間違いないようです。カヌーでインド洋を横断したわけですが、のちにアフリカ大陸からも人が移住し、マレー・ポリネシア系の人と混血していったようです。
    文献に登場するのは、最古のものとしては古代ギリシャのプトレマイオスによるもので、マダガスカルは「メヌティアス」という名称で記述されているという説があります。ただ異論も多くあり、確実とはいえません。
    マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、ソマリアのモガディシュ(Madageiscar)と勘違いしたようで、耳で聞いた音を転写するときにマダガスカルと誤ってしまい、それがマダガスカルの国名の由来になったといわれています。

     

    全島を統一した政権はなかなか現れず、16世紀に成立したメリナ王国(Fanjakan’Imerina)が19世紀前半になって初めて島の大部分を統一しました。
    この王国の神話は天孫降臨型で日本と同じように、天から降りてきた神によって王国が始まったというものです。
    しかしフランスが侵攻し、1897年にフランス植民地帝国に吸収されてしまいました。
    独立したのは1960年代になってからで、70年代には社会主義政権になりました。ただ、10年程度で社会主義路線を廃止しました。

     

    マダガスカルは動植物の固有率が多く、観光に行くならそれらが目的になる方も多いといえます。
    多様性に富む珍しい動植物を見ながらグレイワインを飲むのも、機会があればぜひしてみたいと思います。

     

  • タラゴナ(Tarragona)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はタラゴナ(Tarragona)について勝手に語ります。

     

     

    スペインのカタルーニャ州にあるタラゴナは、歴史あるワイン産地です。その歴史はローマ時代にまで遡ることができます。
    生産範囲が広いため、生産されるワイン種類も多いといえます。
    最も多いのはテンプラニーリョ種の赤ワインで、タラゴナのワインの半分近くを占めているようです。他でもブドウ品種は黒ブドウが多いようですが、シャルドネによる白ワインもつくられるています。

     

    タラゴナは、バルセロナにも近く、電車なら1時間から1時間半程度の場所になります。毎時2、3本の電車が定期運行しています。
    タラゴナ近郊の都市を含めたタラゴナ都市圏としては、人口は約34万人で、タラゴナ県の県都になっています。
    この地方では、標高の高低が異なる2つの地域があります。
    一つはエブロ川流域のタラゴナ・カンポと、丘陵地帯のリベーラ・デブラです。タラゴナ・カンポの標高は約200mで、リベーラ・デブラは200mほど高い約400mです。わずか200mの差ですが、タラゴナ・カンポは地中海性気候、リベーラ・デブラは季節変動が激しく、夏と冬の気温差が大きのが特徴です。これは標高だけでなく、海岸線に近いか、山に囲まれているかの差も影響していると思われます。

     

    そしてこのタラゴナには古代ローマ時代の遺跡が多い場所としても知られています。世界遺産「タッラコの考古遺跡群」として登録されています。
    古代ローマ時代には、タラゴナはイベリア半島の中心地して繁栄していたようです。しかも紀元前100年頃には巨大都市となっていて、人口も100万人を超えていたのではないかとわいわれるほどです。
    ローマ皇帝カエサルの時代に都市整備が進み、ローマ皇帝直属の都市になったことで、ローマの建築物が大量に建造されていきました。具体的には円形競技場、大聖堂、水道橋、凱旋門、長官公邸などです。
    この中で円形競技場は1世紀後半に建てられたといわれますが、収容人数は14,000人を誇る巨大な競技場でした。船で運んできた猛獣を見世物にもしていたようです、地下から競技場まで滑車を使って猛獣を引き揚げることができる手動エレベーターもありました。
    ローマ時代の水道橋としては、ラス・ファレラス水道橋があり、こちらは円形競技場より古く、紀元前1世紀頃の建造だといわれます。
    アウグストゥスの命令で造られたといわれています。全長が217m、高さ27m、幅2mという大きさがあり、二層のアーチ構造になっています。かなりの規模であることが分かりますが、スペインで現存する水道橋としては、セゴビアの水道橋が最大で、ラス・ファレラス水道橋は2番目になります。
    また、この橋は、娘と悪魔が賭けをして、負けた悪魔が一晩で橋を架けたという伝承があり、このことから「悪魔の橋」とも呼ばれています。
    建設の速さだけでなく、驚くべきことにこの橋は、18世紀まで現役で市民に水を供給していたそうです。古代ローマの建築物の耐久性には恐れ入るとしかいいようがありません。

     

    このように古代ローマ時代に大発展したタラゴナですが、スペインはその後に西ゴート族やウマイヤ朝の侵入がありました。
    さらにイスラム教勢力からキリスト教に戻すためのレコンキスタなどもあり、激動の歴史を辿っていきます。
    スペインのワインの歴史を語る上で、古代のカルタゴやローマは切り離せないものですが、その後の激動の時代も大きく影響しています。このタラゴナも世界遺産の見学だけでなく、ここで生産されるワインもぜひ味わいつつ、歴史に思いをはせるのも良いかもしれません。

     

  • エジプトとワインとコプト

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエジプトとワインとコプトついて勝手に語ります。

     

     

    古代エジプトではワインが飲まれていましたが、現在はイスラム教の国家といういこともあり、飲酒が一般的ではありません。
    しかし、イスラム教徒だけでなく、コプト教徒の人はワインもビールも飲みますし、大げさ言えばエジプト国内で酒類製造から販売については、コプト教徒が独占するビジネスともいえます。

     

    では、コプトとは何でしょうか?
    簡単にいえば、エジプト国内のキリスト教徒のことです。したがってコプトという民族があるわけでもなく、コプト教という独立した宗教があるわけでもありません。
    ただ、コプトの大多数を占めるのは非カルケドン派コプト正教会なので、そのイメージが強いかもしれません。しかし宗派で区切られるものではないため、東方典礼カトリック教会のコプト・カトリックも含まれ、キリスト教というだけでプロテスタントも含めたりします。
    コプトというのは、ギリシア語でエジプトを意味する「アイギュプトス」に由来するといいます。これが「コプト」に変化するのは無理があると思われるでしょうが、アラブ人は「アイギュプトス」を「キプト」と省略しました。ヨーロッパでは、この「キプト」を「コプト」と発音したことで生まれた単語といわれます。
    要するに「コプト教」は、そのままの意味で「エジプトのキリスト教」となるわけです。このことからすれば、コプト教にプロテスタントが含まれていたとしてもおかしくないことになります。

     

    コプト教徒は全世界に2000万人近くいるのでは、といわれますが、正確な数は把握されていません。エジプト国内では全人口の10%程度に相当する800万人を超えるほどだといいます。
    日本人にとっては、エジプトとキリスト教のイメージが重ならないかもしれませんが、エジプトにキリスト教が入ってきた伝承では、新約聖書の「マルコによる福音書」を著したマルコによる布教だったといわれます。西暦42年頃のことだといいます。
    マルコにより齎されたキリスト教は、アレクサンドリアが拠点となり、アレクサンドリア学派の神学まで誕生しました。
    西暦451年に開かれたカルケドン公会議では、単性説(Monophysitism)というイエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説を異端としたことに対し、エジプトの教会は反発し、東方正教会から離脱するとともに、カトリックにも属さない立場となりました。非カルケドン派です。
    以前に取り上げたエチオピアでも非カルケドンコプト正教会が主流になったことと同様のことです。

     

    アフリカ最古の独立国

     

    コプト教の典礼語はコプト語で、教会で使われる暦はコプト暦です。
    コプト語は古代エジプト語から繋がる言語で、コプト暦は古代エジプトのファラオが使っていたものです。さらにいうと、教会で歌われる聖歌も、古代のファラオの死を悼みつつ、次のファラオの即位を祝福する歌ともいわれます。
    古代エジプトの要素を残しながら、キリスト教を取り入れ、しかも正教会には異端とされながら独自の道を歩むというのは、何とも特殊な感じがします。

     

    しかし、7世紀に入るとイスラム教の勢力が侵攻してきました。
    エジプトはイスラム帝国に支配されることになりましたが、それでもコプト教は壊滅されることなく、一定数の信者を維持していました。
    オスマン帝国の解体後は、イギリスに対する独立運動として1919年エジプト革命により、イスラム教徒とコプト教徒が共闘したこともありました。
    1956年にはイギリス軍を撤退させることに成功し、エジプトは独立を果たしました。このときは宗教的な寛容性がありましたが、1970年にサダト大統領時代になると、イスラム主義者と手を組み、コプト教会への放火事件なども起こり、宗教間対立が生まれました。

     

    1981年にサダト大統領が暗殺され、ムバラク政権となり、さらに2011年には「アラブの春」が起こりました。民主化運動が高まりましたが、コプト教徒はこの民主化運動に連動することはなかったといいます。
    民主化運動には「イスラム同胞団」がいて、かつてのように共闘できる相手ではなかったからでした。

     

    海外からの旅行客がエジプトに滞在してもワインが普通に飲めるのは、コプト教徒の方のおかげです。
    このような視点でエジプトを考えるのも良いのではないでしょうか。

     

  • ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)のワインについて勝手に語ります。

     

     

    日本で南米のワインといえば、圧倒的にチリワインの流通量が多く、気軽に購入できるワインとしても人気です。
    他にもアルゼンチンワインなどありますが、ウルグアイのワインと聞いて、すぐに分かる人は少数派といえるでしょう。
    南米の国というと広大な面積を想像しますが、ウルグアイはかなり小規模で日本の半分程度しかありません。また南米の中では生活水準が安定しているといわれています。
    日本から行こうとすると、1日では着かない国です。例えばフランスやアルゼンチンなど、最低でも2回の乗り換えが必要な国だからです。

     

    ウルグアイはインカ帝国の影響が及ばない地域でした。そのためスペイン人の探検により発見されたときまで、原始的な農耕民が居住し、国家ではなく、部族の小規模な集団が各地に点在する場所でした。
    また、鉱山資源もなかったことから、ヨーロッパの人たちの殖民もそれほどありませんでした。
    ただ、この地に放牧された家畜が野生化し、大繁盛し、ガチョウまで住み着くようになると、これらの家畜を奪うためにスペインとポルトガルが侵入してきました。
    最終的にスペインが植民地化することになりました。

     

    ヨーロッパの各国の思惑が、この辺境の地にも飛び火し、その中からスペインとの独立戦争にも至りました。しかし、ブラジルからポルトガル軍が侵攻し、この地はブラジルに併合されることにもなりました。
    次の独立への動きは、相手がブラジルとなり、ラテン・アメリカでは初の本格的な域内戦争といわれるシスプラティーナ戦争(Guerra da Cisplatina) などにも発展しました。
    最終的に1828年になって、イギリスの仲介によりモンテビデオ条約がブラジルとアルゼンチンの間で結ばれました。この条約により「ウルグアイ東方共和国」という独立国が誕生したのです。

     

    そんなウルグアイは南米大陸で2番目に面積が小さな独立国となり、現在では国土の約88%が可耕地となっていて、森林は国土の約5%程度しかありません。
    この国のワインでは、まず最初に押さえておくべきものが「タナ」(Tannat)という品種です。黒ブドウ品種で、ウルグアイワインの全生産量の約35%まで占めています。
    フランスの南西部の土着品種ですが、ウルグアイで栽培されるタナは、フランスより濃厚な味わいとなり、コクもあります。
    ウルグアイの地に適応したことで、ウルグアイのタナを略して「ウルタナ」と呼ばれるようになり、ウルグアイを代表するブドウ品種になりました。

     

    ウルグアイの人口は336万人で、首都のモンテビデオ(Montevideo)には130万人が住んでいます。ヨーロッパ系白人が87.7%、黒人が4.6%という割合で、言語もスペイン語なので、現在の国のデータだけ見るとヨーロッパにある国のような印象です。
    教育水準も高く、南米の他の国と異なり、カトリック教会の影響力も低いのが特徴です。
    そんな国で適合したウルタナのワインを飲んでみたいと思う次第です。

     

  • ワルシャワ(Warszawa)とワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワルシャワ(Warszawa)とワインについて勝手に語ります。

     

     

    ポーランドというと、ヨーロッパの中でもワインに関心のないイメージがありました。
    ところが、ドイツのオスナブリュック(Osnabrück)新聞の電子版でポーランドがワイン大国になるかもしれないことを知りました。かなり衝撃的な内容でしたが、それ以外ではポーランドでは珍しい白ワイン産地のジェロナ・グラ(Zielona Góra,Grünberg)なども取り上げたことがありました。

     

    ポーランドがワイン大国に!

    ジェロナ・グラ Grünberg

     

    実は聞いてみると、ここ最近のポーランドはワイン文化が浸透し、急速に発展しているといいます。信憑性のない話ですが、ワインバーの数はドイツを上回るという人もいるそうです。
    しかもブドウ農園もかなりの増加傾向にあるといいます。こちらは信憑性のあるデータを出すことができますが、とにかくそれほどまでにワインは人気になったようです。

     

    そんなポーランドですが、日本から行くとすると、やはり最初の訪問地は首都のワルシャワ(Warszawa)ということになるでしょう。ポーランドの政治、経済の中心地であり、交通の要衝でもあるワルシャワには、日本からの直行便もあります。
    1611年にポーランド・リトアニア共和国の首都となって以降、この地方の中心都市となりましたが、激動のヨーロッパの歴史は、独立国家の首都であり続けることはできませんでした。
    ナポレオンによるワルシャワ公国の建国はあったものの、その後のウィーン会議によりポーランド立憲王国となり、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につきました。
    1830年には、十一月蜂起、別名ワルシャワ蜂起が起こりましたが、その結果は無惨にも鎮圧されただけでした。続く一月蜂起では、ワルシャワにポーランド人の臨時政府樹立までいきましたが、これもすぐにロシアによる鎮圧という結果に終わりました。

     

    ポーランドが正式に独立したのは、第一次世界大戦でポーランドを占領していたドイツが敗戦したことによります。
    パリ講和会議でポーランドの独立が承認されたことで、ワルシャワは再びポーランドの首都となりました。
    しかしこれも長くは続かず、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻しました。ワルシャワはナチス・ドイツの占領下におかれました。
    ポーランド政府は亡命政府としてフランスのパリに拠点を置き、ナチスへの抵抗運動をはじめましたが、占領下にあるワルシャワでは、市内に住むユダヤ人がワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、絶滅収容所へと送られることとなりました。

     

    ワルシャワをドイツ軍から開放したのはソ連でした。1945年1月でした。
    これによりポーランド人民共和国が成立したものの、44年間もソ連の衛星国家になってしまいました。ワルシャワはまた首都となりました。
    ソ連型の経済を推進させるため、工業化政策の遂行は、製鉄業や自動車産業などの工場を集積し、国営工場となりました。
    ソ連崩壊語の民主化の流れの中で、これらの国営工場の多くは倒産しました。逆に民主化後に創業した新興企業が業績を伸ばしています。
    一方で、ポーランド亡命政府は帰国できなくなり、パリからロンドンへと避難することになりました。

     

    ポーランドの有名人といえばフレデリック・フランソワ・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)を挙げることができるでしょう。ロマン派音楽を代表する作曲家であり、当時のヨーロッパを代表するピアニストだった人物です。
    彼の父親はポーランドに移住してきたフランス人でしたが、ワルシャワ市民兵として戦いに参加していた人物です。ショパンはそんな父親の二人目の子供として誕生しました。
    ショパンの生涯は、肺結核に悩まされ続けた病弱な人生でした。
    ワルシャワという都市の歴史とも重ね合わせたくなる音楽家です。
    なので、今宵はショパンを聞きながらポーランドのワインを味わいたくなります。

     

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