今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ベルリン紀行 7(Potsdamer Platz)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ベルリン紀行の7回目です。
    今回は前回のベルナウアー通り(Bernauer straße)とアレクサンダー広場やブランデンブルク門とは反対側、つまり南側に位置するポツダム広場(Potsdamer Platz)を紹介します。

     

     

    ポツダム広場は東西分断時代から大きく変化した場所です。
    1920年代はヨーロッパ経済の中心地の一つでもあり、ベルリンの夜の繁華街を代表する場所でもありました。
    ここもブランデンブルク門と同じように城門の一つだった場所で、名称の「ポツダム」はポツダム街道の起点という意味になります。
    栄華を極めたベルリンの繁華街も、第二次世界大戦末期、空襲と砲撃により街そのものが破壊されてしまいました。その時代の写真を見ると、今では想像出来ないほどの廃墟でした。
    占領軍による東西分割の際、ポツダム広場はアメリカ軍、イギリス軍、ソビエト軍の占領地域の境界地点になりました。東西ベルリンの分断地域となり、周辺の建物は廃墟のままで、修復されたビルはごく一部という状態でした。
    1961年8月以降は、市民の集まる場所だったポツダム広場が、完全に行くことができない境界地域となり、なおかつ広場もベルリンの壁により二つに分断されてしまいました。壁の周囲はかつての喧騒が嘘のように無人地帯となり、廃墟状態の街を更地として、完全な荒地になってしまいました。

     

    1989年にベルリンの壁が崩壊しました。
    翌年にはドイツ・マルクの通貨統合がなされ、そのときにベルリン関連のニュースではポツダム広場の光景も多く映し出されました。ブランデンブルク門と並んでポツダム広場は東西分断の終焉を迎えた象徴的な場所だったのです。
    ドイツ人だけでなく、世界中の西側の人々が、この機会にベルリンへと集まるようになり、アウトバーンもベルリン方面は渋滞が多発するようになりました。これが理由で、当時、ベルリン行きを諦めていましたので、今回、初めてここを訪れるのには、感慨深いものを感じずにいられませんでした。
    そして1990年10月3日、ドイツ再統一となり、その日はネッカー川沿いの小さな村で迎えました。
    ベルリンの喧騒とは異なり、静かに再統一を祝う村人たちと一緒に、いつもより1杯だけ多くワインを飲みました。
    季節外れの暑い日でした。

     

     

    ベルリンの中心部に位置するポツダム広場は、ベルリン市によって4分割し、それぞれの地域を開発するデベロッパーに売却しました。そのため、この再開発期間は、ヨーロッパ最大の工事現場となりました。
    そしてこの地域は、ダイムラー・ベンツ、ソニーの2つが担当した地域が広く、今では観光名所となっているソニーセンターなどは、ベルリンの近代建築の最高峰の一つだといわれるようになりました。

     

    ショッピングモールもでき、現在は1日に7万人以上がポツダム広場を訪れるようになりました。
    映画館も3つあり、ベルリン国際映画祭が開かれる場所にもなりました。

     

    ベルリン観光では定番の場所となりましたが、ここではヨーロッパらしい雰囲気はありません。
    もし歴史的背景を知らない日本人が訪れたとしたら、東京の光景とそれほどの差異がなく、単なるショッピングエリアとしか思えなしでしょう。
    でも、もともとはベルリンの中心地で、混沌と喧騒の街だったわけですから、それならそれでも良いのかもしれません。初めてポツダム広場を散策して、そんな感想を持ちました。

     

  • フランス共和国( République française)3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインと美食の国・フランスについて勝手に語る第3回(最終回)です。

     

     

    フランス革命により、ルイ16世が処刑され、さらに王妃マリー・アントワネットや王党派のダントンらまで処刑されました。
    ロベスピエールによる恐怖政治の始まりでしたが、彼も1794年にクーデターで失脚し、今度は処刑される側になってしまいました。
    そして1799年です。
    ナポレオン・ボナパルトの登場です。

     

     

    1804年にはナポレオンが皇帝に即位し、次々とヨーロッパ各国に対し侵略をはじめました。連戦連勝の破竹の勢いだったナポレオンでしたが、ライプツィヒの戦いに敗れ、1814年に退位することになりました。ウィーン会議により、エルバ島への流刑が決定しました。
    しかし、ナポレオンは翌年の1815年にエルバ島を脱出し、再び返り咲きます。ただこれも百日天下に終わり、完全な失脚へと繋がりました。
    次にルイ18世がフランス国王に即位したことにより、ブルボン家の復古となりました。諸外国はこの即位を承認しました。
    一般的によくいわれるウィーン体制による保守反動的な体制です。それでも絶対王政が完全に復活したわけではなく、立憲君主政となり、近代的国家としてかつての身分制の枠組みは復活しませんでした。

     

    ルイ18世の次に、弟であるシャルル10世が即位すると、王権復古的な政治を推し進めますが、これにともなって王への反発も強まりました。
    そして1830年の七月革命により、シャルル10世も失脚しました。
    フランスの歴史が難しいのは、この革命は立憲君主派によるもので、共和政にはならなかったことになりますが、共和制や帝政などが繰り返され点にあります。ちなみに現在は第五共和制です。

     

    さて、七月革命後に即位したルイ・フィリップは、次の二月革命で失脚しました。
    その後の総選挙では社会主義者が大敗を喫し、国立作業場が閉鎖されたことで、パリの労働者が反発し、六月蜂起を起こしました。これはすぐに鎮圧されたものの、政治的混迷状態が続きました。この背景から、ある種のカリスマ性を持った強力な指導者の登場が待望されるようになったのかもしれません。
    結局、その願望を叶えたのがルイ・ナポレオンでした。1851年、国民投票により皇帝に即位しました。
    このナポレオン3世については、以前に投稿したことがあります。

     

    ナポレオン3世が制定したワインランク

     

    ナポレオン3世は、様々な外国遠征に成功し、国内では工業化を推進していきました。
    しかし1870年に普仏戦争に破れ、ナポレオン3世が捕らえられてしまいました。これが第二帝政の終焉でした。

     

    第三共和政は1875年の第三共和国憲法によって始まりました。
    この時期に第一次大戦も第二次大戦も起きました。
    この時期の「自由フランス」についても以前に投稿したことがあります。

     

    自由フランス

     

    大戦後に第四共和制、第五共和制と移行しました。
    3回に分けて、駆け足でフランスの歴史を語ってきましたが、よく分からなかったかもしれません。おそらく日本の歴史もこの短い量で語った場合、同じようによく分からず、なんだか同じことの繰り返しのように感じるかもしれません。でも、それが歴史というものかもしれません。
    歴史は繰り返す、、、
    フランスも日本も共通することではないかと、思いつつ、この連載を終えます。
    フランスは詳しくないので、疲れました。

     

  • フランス共和国( République française)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインと美食の国・フランスについて勝手に語る第2回です。

     

     

    1337年に百年戦争が起きました。
    この戦争で登場したジャンヌ・ダルクは、消極的な作戦を一新する効果をもたらしました。防戦から攻勢に転じたフランス軍は、イングランド軍が占拠していたサン・ルー要塞を攻略することに成功しました。
    さらに、1429年にはジャンヌが軍を率い、サン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠しました。
    この翌日には逸話が残っています。
    作戦会議の席で指揮官だったデュノワは、イングランド軍へのさらなる攻撃には消極的な立場でした。しかし、ジャンヌ・ダルクはこれに反対していたのです。
    結局、指揮官のデュノワは市街の城門を閉鎖し、戦線拡大をしない選択をしました。一方、ジャンヌは、市民と兵を呼び集め、城門の責任者に門を開けさせるように働きかけます。
    そしてジャンヌ・ダルクは市街を脱出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略へと進んだのでした。
    その夜、作戦会議では、軍事行動の中止が決定していたことを知ることになりました。それでも彼女は無視し、レ・トゥレルへの攻撃を主張したのでした。

     

    このジャンヌ・ダルクですが、「神の声」を聞いたと公言していました。そのため、異端審問も経験しています。
    それによると、初めて「神の声」を聞いたのは12歳だったといいます。その内容は、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿が現れ、イングランド軍を駆逐し、シャルルをフランス王位に就かしめよという「声」だったといます。
    聖人たちの姿が消えると、ジャンヌ・ダルクは泣き崩れたそうです。

     

    さて、フランスの歴史に戻ると、いよいよフランス革命に近づいていきます。
    1589年にナヴァール王アンリが、フランス王に即位し、ブルボン朝となります。アンリはカトリックに改宗しつつ、1598年にはナントの勅令によって宗教的な寛容を示しました。しかし、1610年にカトリック教徒の凶刃に倒れることになってしまいました。
    次に即位したのがルイ13世です。彼は王権の強化を推進し、1618年から三十年戦争に突入します。
    三十年戦争といえば、ヨーロッパのキリスト教において史上最大の宗教戦争でしたが、ルイ13世はカトリックという宗教的な立場よりもフランスの国益を優先していました。その結果、ブルボン家の勢力を拡大させることになりましたが、カトリック派からは反感を買うことになりました。
    1643年にルイ13世が死去し、次にルイ14世が即位しましたが、当時まだ5歳でした。そのため宰相のマザランが補佐することになりました。
    宰相マザランは1661年に死去、ルイ14世の親政が始まることになりました。
    このルイ14世こそが「太陽王」と呼ばれ、「絶対王政」の時代を到来させました。
    まさにフランス革命前夜へと繋がる道が開けました。

     

    フランス革命をもたらしたものは、「絶対王政」に対する反動といえます。
    これは、聖職者・貴族・ギルドといったある種の利権団体により成立したものであるがゆえ、その圧政に反発した民衆の革命でした。
    1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃事件が起きました。これがフランス革命の契機でした。これは単なる襲撃事件に終わらず、その戦火はフランス全国にまで飛び火していきました。農民の暴動は、貴族や領主を襲うこととなったのです。
    このような騒乱を受け、国民議会は8月27日に人権宣言を採択することになりました。しかし、ルイ16世は、議会から提出された法令の可決を拒絶しました。
    このような不安定な政治情勢の中、フランスの物価は高騰し、怒ったパリの女性たちが武器を手にして、ヴェルサイユ宮殿に乱入する事件まで起きました。さらに一部は暴徒と化すことにもなりました。
    ルイ16世はこの段階になって、ようやく人権宣言を承認したのでした。
    さらに、その後はパリ市民の監視を受けることとなったのです。
    ただこの革命は、他の地域にまで波及することを恐れるヨーロッパ各国によって、革命に干渉する動きが現れ、さらにこれに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発することにもなりました。

     

    この革命以降の歴史は共和制や帝政、王政などがあり、まさにフランスの歴史の醍醐味となっていきます。

     

  • フランス共和国( République française)1

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    やはりワインと言えばフランス、でもフランスのこと、特に歴史についてどれだけご存知でしょうか?
    今回はワインと美食の国・フランスについて勝手に語ります。

     

     

    ワインだけでなく、旅行先としても人気のフランスですが、正式名称はフランス共和国(République française)で、国名のFranceはフランク王国に由来します。
    その証拠に、フランスの歴代の王の代数は、フランク王国の王からの連番となっているのです。
    凱旋門やエッフェル塔、ルーヴル美術館など、フランスの観光地は、日本人なら誰もが知るような場所が多くあり、馴染み深い国とはいえますが、どのような国の成り立ちなのか、その歴史については意外と馴染みがないかもしれません。

     

    世界史の教科書で最初に登場するフランスの地は、おそらくラスコー洞窟でしょう。
    有史となると、遡れるのは古代ローマの時代になります。
    フランス周辺地域は当時、「ガリア」と呼ばれていて、居住していたのはケルト人だといわれます。
    カエサルの「ガリア戦記」がこの時代の第一級資料として有名です。
    ガリア戦争により、紀元前58年からカエサルがガリアの全域を征服したことで、ローマの属州となりました。その結果、ローマ的な都市の建設が行われることとなりました。

     

    その後、西暦375年ごろからゲルマン人がローマ帝国を脅かすようになります。「ゲルマン人の大移動」です。
    そのゲルマン人の民族のひとつがフランク族で、ローマ帝国と同盟関係となり、他のゲルマン系民族だけでなく、ローマ系住民まで吸収していき、勢力が大きく拡大していきました。その拡大範囲は、現在のフランス領土内だけでなく、ドイツの一部地域にまで及びました。
    これがフランク王国の成立に繋がりました。
    最初に統治したのはクローヴィス王で、ローマのカトリックを受け入れ、自ら洗礼を受けたことで、カトリック勢力からの支持を得ることができました。これは勢力拡大の上ではとても有利に働き、その後も遠征を繰り返し、西ゴート王国からガリア南部を奪取することに成功し、ガリア支配を確立させました。
    しかし、クローヴィス王の死後には、フランク王国は4つの国に分かれることになりました。その中でアウストラリア分王国のカロリング家が台頭し、フランク王国全土を従える実質的支配者へとなっていきました。
    こうして、メロヴィング朝からがカロリング朝の時代となり、シャルルマーニュ(カール大帝:Karl Martell)はイベリア半島にまで遠征し、イスラム勢力やアヴァール族を相手にし、イベリア半島北部からイタリア半島北部、現在のハンガリー周辺までを勢力範囲としました。
    ヨーロッパを統一に等しいほどの偉業を成し遂げたのです。
    これにより、フランク王国の領土は最大になり、ヨーロッパも平静な時代となりました。そして800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられたのです。

     

    シャルルマーニュの没後は、フランク王国は3つに分裂しました。
    西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国ですが、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となる国だといわれます。

     

    西フランク王国はカロリング家の後、987年にユーグ・カペーによってカペー朝となりました。しかし、この時代には東フランクのオットー1世が皇帝となった神聖ローマ帝国と比べると脆弱なものでした。
    それでも13世紀になると、にカペー朝は徐々に王権が強化され、ノルマンディーを奪ったりしました。ローマ教皇との連携が進んだことも影響しています。
    ただこれも長続きせず、14世紀には、フランス王とローマ教皇は対立関係に変化してしまいます。
    最終的に、フランス王権がローマ教皇に対して優位性を示し、フランス教会は、ローマ教皇から独立することに繋がりました。
    カペー朝はこのように繁栄することとなりましたが、あっけなく終焉を迎えました。フィリップ4世の死後、跡継ぎが不在だったのです。栄華のあとに王朝断絶へと至ったのでした。

     

    カペー朝断絶は、フランスの王位継承問題になり、百年戦争にも繋がりました。
    フィリップ6世がフランス王に即位したことに対し、フィリップ4世の孫でイングランドド王のエドワード3世が、自分こそが正当なフランスの王位継承者だと主張したことに始まります。
    この戦争で登場したのがジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)です。

     

    彼女はバル公領の村ドンレミで農夫の娘として生まれましたが、神の啓示を受け、フランス軍に従軍したといいます。
    まさに伝説化した人物で、フランスの歴史を語る上では外せない人物です。
    改めて彼女に焦点を当てて、この続きにしたいと考えます。

     

  • ベルリン紀行 6(Bernauerstraße)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ベルリン紀行の6回目です。
    ベルリンのミッテ区(Bezirk Mitte)ですが、今回は中心部から離れ、ベルナウアー通り(Bernauer straße)を紹介します。

     

     

    アレクサンダープラッツ駅からベルリン地下鉄(U-Bahn)8号線のベルナウアー通り(Bernauer straße)駅までは3駅です。北西方面への移動となります。
    プレンツラウアーベルクの角のマウアーパークからノルドバーンホフまでの通りですが、ここは東西ベルリン分断時代にベルリンの壁があった場所です。ブランデンブルクにあるベルナウバイベルリンの町の名が由来といわれています。
    そして、この通りこそ、ベルリンの壁の恐ろしさを今に伝える場所なのです。

     

    ベルナウアー通り駅は、ベルリンの壁があった頃には幽霊駅(Geisterbahnhof)と呼ばれる駅でした。
    その時代、地下鉄の駅も東西分断により閉鎖されていました。
    ベルリンの壁は1961年に建設されましたが、その影響で東西を通過する地下鉄も遮断されたからです。例えば、始発も終点も西ベルリン側にあったとしても、経由する地域に東ベルリンがあった場合、その路線の東ベルリンにある駅を閉鎖したり、通過する扱いになっていました。このことから、通過される東ベルリン側の駅を幽霊駅というようになったようです。
    このUバーン8号線の場合は、西ベルリンのフォルタシュトラーセ(Voltastraße)駅から西ベルリンのモーリッツプラッツ(Moritzplatz)駅までの区間の路線で、南北を結んでいました。その路線の中で東ベルリン内には6駅あり、これらは駅があっても停車できず、通過するだけの扱いでした。
    現在のベルリンを代表するアレクサンダープラッツ(Alexanderplatz)駅ですら、8号線では通過するだけの幽霊駅だったのです。

     

    地下鉄を降り、地上に出るとすぐ右側に、いまでもベルリンの壁の一部が残っています。
    それだけでなく、各年代の写真が飾られ、壁がつくられた時代、壁が圧倒的な存在感を示していた時代、そして壁が崩壊した時代など、各時代の光景を見ることが出来ます。
    また、金属製のポールがいくつも並んでいて、そこにベルリンの壁が建っていた印になっています。壁と同じ高さにしているそうです。
    トンネルを掘り、勇敢にもそこから西側へと逃げた場所・シュタージ トンネルもあります。

     

    芝生が広がり、一見すると都市部の小さな公園のようにも見えますが、憩いの場ではなく、重い歴史を背負ったベルリンという都市が、あえて暗い過去を残した場所なのです。
    米ソの東西冷戦の影響をもっとも受けたのがベルリンともいえます。
    同じ民族、同じ市民が自ら望んだイデオロギーではなく、単に住んでいた場所だけで東西に別れ、それに伴う悲劇が繰り広げられた場所です。

     

     

    ベルナウアー通り駅から西へ10分ほど歩くと、「ベルリンの壁ドキュメントセンター」(Gedenkstätte Berliner Mauer Dokumentationszentrum)があります。
    ここにはベルリンの壁にまつわる様々な展示があり、生々しい過去の写真も見ることが出来ます。地下トンネルを掘った人、東ベルリン側から西へ逃れた人だけでなく、壁を越えられず、銃殺されたりした悲劇などを学べます。ここだけベルリンの壁は時間が止まった状態になっています。

     

    帰りは地下鉄の駅まで戻ろうとしましたが、よく見るとトラムの行き先が中央駅でしたので、それに乗りました。

     

  • ベルリン紀行 5(Checkpoint Charlie)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ベルリン紀行の5回目です。
    ベルリンのミッテ区(Bezirk Mitte)を引き続き散策し、今回はチェックポイント・チャーリー (Checkpoint Charlie) を紹介します。

     

     

    東西分断のという市民にとっては悲しい歴史を持つベルリンですが、その歴史を今に伝える場所が市内にはいくつかあります。その中で最も有名で、最も観光客を集める場所がチェックポイント・チャーリーです。
    東ベルリンと西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所のことです。 1961年から1990年までありました。
    ここはベルリンの壁と同様に東西分断と冷戦の象徴となっていました。そのせいか、冷戦時代を舞台にした小説や映画などにも多く登場した舞台です。

     

    ミッテ区内のカフェで小休止したあと、モーレン通り(Mohrenstraße)からThe Q.というショッピングモールを超え、フリードリッヒ通り(Friedlichstraße)を左折してチェックポイント・チャーリーへと向かいました。
    フリードリヒ通りは街の中心部を縦に貫通するような通りで、ベルリンの壁があった時代には、チェックポイント・チャーリーの南側が西ドイツでした。つまり、東ベルリン側からチェックポイント・チャーリーへと向かったわけです。
    ツィマー通り (Zimmerstraße) の交差点に来ると、いきなり人の数が増加します。そこがチェックポイント・チャーリーです。
    国境検問所ですが、厳密に言うと東ドイツと西ドイツの国境ではありません。当時のベルリンはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連による分割統治エリアで、チェックポイント・チャーリーはアメリカ統治地区とソ連統治地区との境界でした。

     

    従って東西のベルリンにはチェックポイント・チャーリーだけでなく、他にも数多くの検問所が設置されていました。
    なぜ、チェックポイント・チャーリーが、その中で最も有名だったといえば、外国人や外交官など、西側諸国の軍関係者が徒歩で通行するための検問所だったからです。他の検問所では通行出来なかったのです。
    東ベルリン側では監視塔により厳重な体制が敷かれ、フェンスや壁などもあり、物々しい雰囲気だったといいます。逆に西ベルリン側は建造物はなく、当初は木造の小屋が設置されただけで、のちに金属製のものになりました。
    現在は木造の小屋が再建されています。ただ、賑やかな街となり、当時の雰囲気は全く感じられません。

     

    ここを舞台とした悲惨な事件もありました。
    代表的なものがペーター・フェヒター事件でしょう。
    1962年8月17日のことでした。ペーター・フェヒターという男が東ベルリンを脱出しようとしました。若干18歳の青年でした。脱出場所に選んだのがチェックポイント・チャーリー近くの壁でした。
    しかし、東ドイツの警備兵に発見され、しかも銃撃までされたのです。フェヒターは背中に弾を受け、よじ登っていた壁から手が離れ、落下することとなりました。有刺鉄線のフェンスに絡まるように倒れこんでしまったのです。そのまま失血死してしまいました。
    この模様を西側の一般人だけでなく、ジャーナリストなども見守っていました。ただ、彼の落下位置は、境界線を超えることなく、わずか数メートルですが東側にあったことから、アメリカ軍の兵士は救助することができませんでした。
    東ドイツの警備兵もアメリカ軍兵士を刺激することをすることを恐れ、すぐに動くことはしませんでした。そのため、東側もフェヒターに近寄ることを躊躇し、結局、1時間以上経ってから東ドイツ兵が近寄り、遺体を回収したのでした。
    この事件は、東側の非人道的行為と西側が何も出来ない無力感を浮き彫りにし、西側で抗議行動が起こることになりました。
    さらに、この延長上として、イギリス統治区のティーアガルテンに向かうソ連のバスに向かって群衆が石を投げるというする事件が起こりました。そのため、ソ連軍は装甲兵員輸送車でバスを護衛するという事態になりました。

     

     

    現在のチェックポイント・チャーリーには、兵士の写真があり、この写真には当時のアメリカの兵士とソ連の兵士の顔が写っています。
    アメリカの兵士は北側の東ベルリンに向き、ソ連の兵士は南側の西ベルリンに向くように掲げられています。この2人の兵士は、1990年代初頭に実際にベルリンに駐留していた兵士だといいます。
    また、かつて壁が建っていたところでは、道路上に煉瓦で印がされています。意識しないとわからないでしょうが、今の光景からは信じられない場所に壁があったのだと、感慨深くなります。
    検問所跡地のすぐ脇には、1963年に開館した民間の博物館があります。チェックポイント・チャーリー博物館です。
    ここでは、東ベルリンからて壁を越えて、西側へと逃亡しようとした人々が紹介されています。またドイツ東西分断の歴史やベルリンの壁についての資料を数多く展示されています。

     

    チェックポイント・チャーリーが東西分断の場所だったことを知らなければ、ドイツのよくある街中の風景になってしまいます。
    それくらい再統一後の発展は目覚ましく、ここを訪れる場合はぜひベルリンの悲劇を知ってからにして欲しいと思います。

     

  • ボジョレー・ヌーヴォーとフェーダーヴァイサー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    2019年の「ボジョレー・ヌーヴォー」解禁日は11月21日(木)です。
    フランスのボジョレー地区でその年に収穫されたブドウを使った新酒のことで、テレビのニュースなどでも「ボジョレー解禁」が報じられることもあります。
    でも今回は、Federweißerにも触れます。

     

     

    プレゼント用のワイン専門店のシエル・エ・ヴァンでも、ブルゴーニュの名門メゾン・ヴィラージュ・ヌーヴォーを取り扱っています。

     

    メゾン・ヴィラージュ・ヌーヴォー

     

    ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日は、ある種のお祭りのようなもので、日本でもいろいろなイベントが開催されたりします。そのためか、普段あまりワインを飲む機会の少ない人でも、この日はボジョレー・ヌーヴォーを飲んで楽しんだりすることもあります。
    この解禁日を有名にしたのは、ボジョレー近郊でワインをつくっていたデュブッフという人物だそうです。彼が1970年代に、パリのオペラ座の近くでボジョレー・ヌーヴォーの解禁を祝うイベントを行い、そのイベントは大人気になったそうです。
    その後もデュブッフは、パリだけでなく他の国々でもイベントを仕掛け、ボジョレー・ヌーヴォーを有名にしました。

     

    日本でもボジョレー・ヌーヴォーは誰もが知るレベルにまで認知度がアップしましたが、フランスの隣のドイツでは状況が異なります。
    まず、ドイツ人はボジョレー・ヌーヴォーを飲みません。
    いや、正確な情報ではなく、あくまで個人の周辺のドイツ人情報なので、もしかしたら好んで飲む人もいるでしょうが、少なくとも日本ほど人気でないのは事実です。ただし、ドイツ人がフランスのワインを飲まないという意味ではありません。
    ドイツの場合、ボジョレー・ヌーヴォーよりフェーダーヴァイサー(Federweißer)を飲む習慣があるからです。

     

    フェーダーヴァイサーとは発酵途中の若いワインのことです。ただワインかというと、必ずしもそうとはいえず、ワインのように発酵した飲料で、ワイン独特の刺激があるものの、ワインの味ではなく、ワインになる手前の濃縮果汁ジュースにアルコールが含まれているものです。
    ちなみにですが、Wikipediaで調べてみると「Federweißer」となっていますが、独和辞典で調べると「Federweiße」となっている場合があります。最後に「r」がついているかいないかの違いですが、定冠詞無しで単独で使う場合、語尾が形容詞変化したことで「r」が付いたのかもしれません。ちなみに「Feder」は「羽」という名詞、「weiße」は「白い」という形容詞になります。

     

    要するにフェーダーヴァイサーは発酵途中の酒で、「Traubenmost」と呼ばれるものです。その中の「Neuer Wein」(新しいワイン)で、かつ白ブドウ品種のものになります。
    ボジョレー・ヌーヴォーも「新しいワイン」ですが、ドイツではさらにその前段階のものをワインとは別に好んで飲むわけです。必然的にボジョレー・ヌーヴォーの解禁日に近い時期にできるので、ドイツではボジョレー・ヌーヴォーよりフェーダーヴァイサーが主役になり、結果としてボジョレー・ヌーヴォーを飲む習慣はない、と、なるわけです。
    また、発酵途中のため、そのままにしておくと発酵は続きます。この発酵が現在進行形ということから、フェーダーヴァイサーは長期の保存はできませんん。しかも炭酸が作られているので、ふたを密閉するのも危険です。日本に輸出などできるはずがなく、日本にはボジョレー・ヌーヴォーのほうが向いていることになります。

     

    もっともボジョレー・ヌーヴォーとフェーダーヴァイサーは、その年に収穫したブドウでつくられる「新酒」という共通点でしかなく、2つを比較することに意味はありません。その無意味な比較にフランスとドイツの違いが現れるわけで、要するにそれを勝手に語りたかっただけというのが、今回の話でした。

  • アリウス派からカトリックへ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は西ゴート王国(Regnum Visigothorum)について勝手に語ります。
    ワイン生産量の多いイベリア半島を支配した西ゴート王国は、アリウス派からカトリックへの改宗を行いました。

     

     

    西暦507年、フランク族に敗れた西ゴート王国は南フランスからイベリア半島に拠点を移しました。
    560年にはアタナヒルド王により、首都がトレド(Toledo)になりました。 現在のマドリードから南に71kmの距離にある場所です。
    587年には、レカレド王のよりカトリックに集団改宗しました。国家単位では、589年の第三回トレド教会会議により、西ゴート王国は公式にアリウス派からカトリックへ改宗したことになりました。

     

    アリウス派はというのは聞き慣れないかもしれませんが、名称はアレクサンドリアの司祭だったアリウス(250年頃~336年頃)に由来します。
    アリウス派は「アリウス主義」(Arianismus)というキリスト従属説を主張するものです。
    いわゆる「三位一体(Dreifaltigkeit)」という、父なる神・神の子・聖霊の三つが「一体」であるとする教えとは異なります。三位一体はカトリック教会やプロテスタントだけでなく、正教会、東方諸教会でも大半の教派が支持しているものです。
    アリウス派の場合、キリストの神性を神よりも下位に置くことで、イエス・キリストの神性を否定したともいわれます。
    しかし、これはカトリック教会などの見方によって、「神性を否定」したとするもので、実際には必ずしもそこまでの断定はできないようです。アリウスは「ロゴスなる神」「独り子なる神」としてキリストを捉えています。神性を否定している表現とは到底思えません。それくらい論点があっていない気もします。

     

    実際、かなり難しい論争でもあり、神と世界との関係について、その媒介の捉え方が微妙に異なるだけで、神性の否定などという大げさな点に及ぶのかどうかすら分かりません。正統派の立場では、神のロゴスというキリストを神の領域にしたのに対し、アリウスは神ではなく神の被造物の領域にしたことで、キリストを被造物の領域から神への養子となったとする「養子論的従属説」になりました。
    この従属説は、アリウスが初めて主張したものではなく、カトリック教会で聖人とされているアンティオキアのルキアノスなどもそうでした。

     

    ともかく、西ゴート王国はカトリックに改宗したことで、アリウス派の反乱を鎮圧する側になり、トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都にまでなりました。

     

    王国の滅亡はキリスト教と対峙するイスラム勢力によるものでした。
    711年にウマイヤ朝がイベリア半島に上陸し、西ゴート王国は滅亡しました。最後の王はロデリックでした。

     

  • 出自不明のオドアケル(Odoacer)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオドアケル(Odoacer)について勝手に語ります。
    ワイン最大の産出国であるイタリアについて、西ローマ帝国最後の側面から覗いてみます。

     

     

    西暦395年、ローマ帝国は東西に分裂し、イタリアの地域は西ローマ帝国として残りました。
    しかし、ヨーロッパでは4世紀からゲルマン人の大移動により、その波が帝国の領内に及ぶようになっていました。さらにゲルマン人だけでなくフン族などもローマをたびたび掠奪したことで、首都もローマではなく、ミラノ、ヴェンナなどに遷都して辛うじて帝国を存続させていただけで、絶えず大きな脅威にさらされている状態に陥っていました。
    ローマ帝国の防衛についても、敵であるゲルマン人の傭兵部隊に依存しなければならないほど弱体化し、皇帝も傭兵部隊の意向により廃位されたるするほどだったのです。

     

    オドアケルは出自不明で、西暦470年にはローマ軍の将軍となっていました。
    ゲルマン人傭兵たちは、475年にローマ皇帝の交代に際し、新しい皇帝に土地を要求しましたが、これが拒否されたことで傭兵隊長オドアケルに迫りました。
    翌476年、オドアケルは西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、追放しました。さらに「西ローマ帝国に皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送りました。このときに西ローマ皇帝の帝冠と紫衣まで東ローマに返上したのでした。
    歴史的な一幕といえますが、この頃すでに西ローマ皇帝は統治能力を失っていて、オドアケルによる皇帝追放はそれほどまでに衝撃的なこととはいえないレベルのものだったようです。ただそれでも形式的には西ローマ帝国の滅亡を意味することであり、しかもゼノンによって、オドアケルはローマ貴族とイタリア領主(dux Italiae)の称号まで与えられたのです。
    オドアケルはローマ皇帝ではなく、イタリア本土を統治する権限をが与られ、イタリア王という立場になりました。

     

    世界史の教科書では、このオドアケルの皇帝追放により「西ローマ帝国の滅亡」として、重要項目の扱いとされています。
    しかし、先にも述べたとおり、それ以前から皇帝の統治能力はなく、同時代の人々からすれば、それほどのニュースではなかったのかもしれない、というのが現代の解釈です。
    実質的に滅亡したという観点で見ると、オドアケルの皇帝追放以前の5世紀初頭からというのが無理ない考え方のようです。
    その頃、すでに帝国は実質的に機能していなく、滅亡した状態でありながら、死体のまま継続していたということのようです。
    具体的には、378年に西ゴートとのアドリアノープルの戦いに大敗北し、409年にはヴァンダル人などのライン侵攻、ブリテン島の喪失、というように、この期間にローマ帝国は帝国の支配権を大きく失っていました。この敗北の連続が帝国としての機能、皇帝としての統治能力を失わせ、実質的な滅亡状態に導かれたようです。
    つまり、ヨーロッパの主役交代がこのときに始まったことになるわけです。

     

    このようにオドアケルが最終的なトドメをさしたというものの、実態は西ローマ帝国が急速に衰亡しのは、ゲルマン人を始めとする多くの外敵の侵入と、それに対峙する皇帝の能力のなさが原因であるとすることが、一般的な歴史の解釈です。
    しかし、この解釈には異論を唱える人もいます。
    その考え方が「ローマ人」の扱いというものです。
    東ローマ帝国ではローマ出身ではなく、様々な民族が皇帝を支える統治機能の要職に含まれていたことで、民族は関係なく「ローマ人」としての意識を持ち続けていました。これに対して西ローマ帝国では、同じ「ローマ人」という意識は多民族にはなく、地域での独立的な自治が機能し、西ローマ側では、彼らを「ローマ人」として扱わず、むしろ排除する志向へと変化したようです。
    外圧が高まる中で、排他的な「ローマ人」は偏狭な差別で対応し、かつての異民族まで許容し、同じ「ローマ人」とした世界的国家から狭い民族国家になったことで、帝国を維持できなくなったというものです。
    これは南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(2013・岩波新書)の指摘を勝手に解釈したものですが、確かに世界的な国家のアイデンティティを考えると、なるほど、とうなずける気もします。

     

    さて、オドアケルですが、484年に東ローマ帝国の内乱がおこり、ゼノンと対立する皇帝レオンティウス側につきました。
    これに対して、ゼノンはテオドリックにオドアケル討伐を命じました。テオドリックはイタリアに侵攻し、オドアケルは相次いで敗れ、ついに493年に降伏しました。
    そして暗殺されました。
    テオドリックは、オドアケル討伐の功として、イタリア王の地位を承認されたことで、東ゴート王国が成立することになったのでした。

     

  • ベルリン紀行 4(Bezirk Mitte_Brandenburger Tor)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ベルリン紀行の4回目です。
    日本で言えば「中央区」や「中区」を意味するミッテ区(Bezirk Mitte)についての周遊から、まずはブランデンブルク門(Brandenburger Tor)です。実はアレクサンダー広場(Alexanderplatz)もペルガモン博物館 (Pergamonmuseum)もミッテ区にあります。

     

     

    まずこの地区でベルリンのシンボルとなっている場所があります。
    ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)です。

     

     

    高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの門です。
    もともとは関税門の一つで、他に関税門は 「ハンブルク門」「ポツダム門」「アンハルト門」などの街道の先にある都市などの名称が使われていました。これは例えばモスクワやパリなどの鉄道ターミナルにもその名残があり、日本人にはなじみがないかもしれません。
    このブランデンブルク門も同じように地名由来で、ブランデンブルクに通ずる街道の門でした。ブランデンブルク辺境伯国の首都の地名もブランデンブルクだったからです。
    ブランデンブルク辺境伯は当然ながらホーエンツォレルン家で、プロイセン王国からドイツ帝国の皇帝となりました。従って、ベルリンに遷都する前の首都がブランデンブルクだったわけです。
    関税門は1868年から取り壊していきましたが、このブランデンブルク門は残されました。

     

    平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけでもあったブランデンブルク門でしたが、ナポレオン・ボナパルトのベルリン征服により、ナポレオンのパレードの舞台と化してしまったこともあります。さらにヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られてしまいました。
    しかし、ナポレオン戦争では今度はプロイセン軍がパリを占領することになり、ヴィクトリア像を奪還し、ベルリンに持ち帰ってきました。門の上に戻され、本来の姿に戻るとともに、ブランデンブルク門は戦勝と凱旋のシンボルともなりました。
    門のある広場もパリ広場に改名されました。

     

     

    ヒトラー政権で突入した第二次大戦では、ベルリン市街戦が繰り広げられ、ブランデンブルク門も損傷してしまい、廃墟となってしまいました。さらに、東西ベルリンの分断は、その境界線が門のすぐ西側に引かれることになりました。従ってブランデンブルク門は東ベルリンになり、1957年に修復されましたが、ヴィクトリアの持つ杖の先がオリーブの枝に変えられました。
    これは社会主義国としてふさわしいようにしたとのことでした。
    そしてベルリンの壁です。
    平和の象徴だったブランデンブルク門が東ベルリン西端となり、東西冷戦の象徴となりはて、周囲には建物すらない空白地帯になってしまいました。

     

    大きな変化はベルリンの壁崩からです。
    1989年にベルリンの壁が崩壊、翌1990年にドイツ再統一により、門が門らしく、本来の役目として、通行できるようになり、さらにヴィクトリアの持つ杖の先が鉄十字に戻されました。
    2000年からは巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われました。

     

    このブランデンブルク門の最寄り駅は、Uバーン(地下鉄)では55号線という最も新しい路線で、中央駅からわずか2駅だけの路線です。
    Sバーンでは、1号線、2号線、25号線、26号線が通っています。Sバーンはフリードリッヒシュトラーセ駅(Bahnhof Berlin Friedrichstraße)から1駅の距離です。
    でも、徒歩がおすすめです。
    ブランデンブルク門から西に伸びるウンター・デン・リンデン (Unter den Linden)を歩いて門に達するのがベストです。
    ウンター・デン・リンデンはドイツ語で「菩提樹の下」という意味です。つまり菩提樹の並木道を意味します。左右に自動車道と歩道がありますが、中央部分にも歩道があり、それが公園内の散策路のような役割をしていて、所々にベンチも置かれています。
    ブランデンブルク門からプロイセン王宮まで続く、ベルリンを代表する通りですから、歩ける方はぜひ散策して頂きたい場所です。

     

    ちなみに、ブランデンブルク門のあとに、ビールを飲みに行くためにウンター・デン・リンデンを歩いたせいか、疲れも感じずに歩けました。
    次回はチェックポイント・チャーリーか、ホロコースト記念碑、ポツダム広場などのどれかを紹介しましょう。

     

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