プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
ベルリン紀行の7回目です。
今回は前回のベルナウアー通り(Bernauer straße)とアレクサンダー広場やブランデンブルク門とは反対側、つまり南側に位置するポツダム広場(Potsdamer Platz)を紹介します。
ポツダム広場は東西分断時代から大きく変化した場所です。
1920年代はヨーロッパ経済の中心地の一つでもあり、ベルリンの夜の繁華街を代表する場所でもありました。
ここもブランデンブルク門と同じように城門の一つだった場所で、名称の「ポツダム」はポツダム街道の起点という意味になります。
栄華を極めたベルリンの繁華街も、第二次世界大戦末期、空襲と砲撃により街そのものが破壊されてしまいました。その時代の写真を見ると、今では想像出来ないほどの廃墟でした。
占領軍による東西分割の際、ポツダム広場はアメリカ軍、イギリス軍、ソビエト軍の占領地域の境界地点になりました。東西ベルリンの分断地域となり、周辺の建物は廃墟のままで、修復されたビルはごく一部という状態でした。
1961年8月以降は、市民の集まる場所だったポツダム広場が、完全に行くことができない境界地域となり、なおかつ広場もベルリンの壁により二つに分断されてしまいました。壁の周囲はかつての喧騒が嘘のように無人地帯となり、廃墟状態の街を更地として、完全な荒地になってしまいました。
1989年にベルリンの壁が崩壊しました。
翌年にはドイツ・マルクの通貨統合がなされ、そのときにベルリン関連のニュースではポツダム広場の光景も多く映し出されました。ブランデンブルク門と並んでポツダム広場は東西分断の終焉を迎えた象徴的な場所だったのです。
ドイツ人だけでなく、世界中の西側の人々が、この機会にベルリンへと集まるようになり、アウトバーンもベルリン方面は渋滞が多発するようになりました。これが理由で、当時、ベルリン行きを諦めていましたので、今回、初めてここを訪れるのには、感慨深いものを感じずにいられませんでした。
そして1990年10月3日、ドイツ再統一となり、その日はネッカー川沿いの小さな村で迎えました。
ベルリンの喧騒とは異なり、静かに再統一を祝う村人たちと一緒に、いつもより1杯だけ多くワインを飲みました。
季節外れの暑い日でした。
ベルリンの中心部に位置するポツダム広場は、ベルリン市によって4分割し、それぞれの地域を開発するデベロッパーに売却しました。そのため、この再開発期間は、ヨーロッパ最大の工事現場となりました。
そしてこの地域は、ダイムラー・ベンツ、ソニーの2つが担当した地域が広く、今では観光名所となっているソニーセンターなどは、ベルリンの近代建築の最高峰の一つだといわれるようになりました。
ショッピングモールもでき、現在は1日に7万人以上がポツダム広場を訪れるようになりました。
映画館も3つあり、ベルリン国際映画祭が開かれる場所にもなりました。
ベルリン観光では定番の場所となりましたが、ここではヨーロッパらしい雰囲気はありません。
もし歴史的背景を知らない日本人が訪れたとしたら、東京の光景とそれほどの差異がなく、単なるショッピングエリアとしか思えなしでしょう。
でも、もともとはベルリンの中心地で、混沌と喧騒の街だったわけですから、それならそれでも良いのかもしれません。初めてポツダム広場を散策して、そんな感想を持ちました。