今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ポツダム紀行 1(Schloss Sanssouci)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンスーシ宮殿(Schloss Sanssouci)について勝手に語ります。
    今年の夏、久しぶりにドイツに行きましたので、そのときの紀行です。秋に夏の旅を思い出してみました。

     

     

    世界遺産になっているサンスーシ宮殿はポツダムにあります。
    ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の州都であるポツダムは人口は約18万人の都市で、ドイツの首都ベルリンから南西約30kmの位置にあります。
    そのため、ベルリンからはSバーン(近郊電車)でもRE(中距離列車)でも容易に往復できる距離です。

     

    旧西ベルリンの中心駅だったZoo(動物園)駅から、行きはSバーンで向かいました。環状線 (Ringbahn) の東西南北にある4つの主要な乗り換え駅の一つであるヴェストクロイツ駅 (Bahnhof Berlin Westkreuz) を過ぎると、車窓には森が広がります。一気に郊外に出たように感じますが、ベルリンの場合はそうではなく、森の合間に都市があるので、むしろ当然の光景といえます。
    ツェーレンドルフ(Zehlendorf)が進行方向左手の先にあり、反対側にはハーフェル川(Havel)の湖に続いている森の中を電車は駆け抜けます。この区間は駅間が長くなり、Sバーンといえども旅情気分を味わえます。
    ヴァン湖を過ぎると、いよいよポツダムに近づきます。

     

    ポツダム中央駅はSバーンの終点ですが、REも多く走っているため、なかなか立派な駅でした。
    正面口ではなく、反対側から街の中心部へと向かいました。トラム(Straßenbahn)やバスもありますが、急ぐ必要がなかったため、自由気ままに歩きました。地図もろくに見ず、現地の人しか通らない路地などもあるきつつ、ブランデンブルク門へとたどり着きました。

     

     

    ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)というと、ベルリンのシンボルですが、ポツダムにもあります。規模は小さいですが、何となく親しみやすい印象です。
    1771年に落成した門で、七年戦争の戦勝記念碑です。ベルリンのブランデンブルク門は1791年の竣工ですから、わずかですがポツダムの門のほうが古いのです。

     

    このポツダムが歴史に初めて現れたのは西暦993年の文献です、「Poztupimi」として記述されたのが最初で、1317年までは小さな町とされていました。
    それでも1345年には都市特権を得ることとなり、その後に三十年戦争によって大きな被害を受けました。
    ポツダムが大きく変化したのは、1660年にブランデンブルク=プロイセンの選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによります。ポツダムに狩猟館を置くこととなり、さらにプロイセンの皇帝を輩出するホーエンツォレルン家の宮殿が建設されることになったのです。
    その中のひとつがサンスーシ宮殿で、18世紀半ばのフリードリヒ2世の治世の間でした。

     

    ブランデンブルク門から北上するとサンスーシー公園になり、庭園が続きます。
    その先の右手にサンスーシ宮殿が現れます。

     

     

    フリードリヒ2世は第二次シュレージエン戦争の最中に宮殿建築を行ったことから、敵対するオーストリアへの挑戦行為ともいわれました。
    もともとはフリードリヒ2世の「夏の離宮」として建設されましたが、実際には離宮ではなく居城となりました。
    設計を担当したはクノーベルスドルフで、彼は壮麗な宮殿の建築プランを提案したものの、フリードリヒ2世の意向により小さいが、瀟洒な宮殿となりました。ただ小さいといっても東西が100メートル、部屋数12という規模です。
    ただサン・スーシ宮殿は平屋建てなので、高さはなく、ヴェルサイユ、ルーヴル、シェーンブルンなどの宮殿と比較するとかなり地味な印象にもなります。
    ロココ建築の宮殿で、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

     

    サンスーシー宮殿の次に向かったのはオーランジェリー宮殿でした。

     

  • マルサラ(Marsala)のペルペトゥオ(Perpetuo)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマルサラ(Marsala)のペルペトゥオ(Perpetuo)について勝手に語ります。

     

     

    ペルペトゥオ(Perpetuo)とはラテン語で「永遠に」という意味です。
    「永遠に終わらないワイン」なのです。
    それは、樽に入れたワインを少しずつ飲んでいき、毎年、新しいワインを継ぎ足すことで、絶えず樽が満たされた「永遠に」終わらないということです。つぎ足しながら熟成させる独特のワインといえます。

     

    そのペルペトゥオは、アルコール度も高めで、16度くらいまで上がるようです。すべて自然発酵の作用です。毎年新しいワインがつぎ足されることで、酵母が活性化され、アルコール度数が上昇し、これが保存料の代わりとなって、長期保存を可能としています。
    琥珀色の白ワインです。
    地中海の陽光が反射し、ワイングラスの中で美しい輝やきを誇ります。

     

    マルサラ(Marsala)は、シチリア島の西海岸に位置し、イタリア共和国シチリア州トラーパニ県では最大の都市です。
    マルサラ・ワインとよばれるものもあり、これは酒精強化ワインです。

     

    この都市の歴史は、地中海にあることから、古代のカルタゴ人から始まります。
    フェニキア人都市モティアがあり、その後にシチリアの第一の要塞リルバイウム(Lilybaeum)が築かれた場所です。
    この要塞は紀元前396年に、カルタゴ人航海者ヒミルコ(en:Himilco)によって建設されたものです。かなり強固な要塞で、ローマも最初は零落させることができませんでした。
    のちにポエニ戦争に巻き込まれ、ローマ軍遠征の拠点になったりしました。皇帝アウグストゥスの時代には地方自治権を獲得しました。

     

    マルサラの名称は、マルサ・アラー(Marsa Allah)やマルサ・アリー(Marsa Ali)によるもので、意味としては「偉大な港」となります。
    シチリアがアラブ人の支配を受けた時代のことでした。

     

    そのような歴史を持つマルサラですが、ペルペトゥオは古代フェニキュア人の時代から続いていると言われます。

     

    マルサラ・ワインについてはこのような逸話もあります。
    1773年のことです。イギリス商人だったジョン・ウッドハウスがたまたまマルサラに立ち寄り、食事のときにワインを飲みました。
    そのワインの美味しさから、イギリスに持ち帰ろうと思いました。しかし、そのままでは本国に届くまでの保存の問題があり、アルコールを添加することを考えました。その時代、イギリスではマデイラ・ワインなどの酒精強化ワインが人気あったため、ごく自然にその考えを持ったといわれます。
    これがマルサラ・ワインとして認知されたという話です。
    ペルペトゥオという伝統とは別に、このような逸話があるほど、ここのワインは高品質であるということなのかもしれません。

     

  • ヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)について勝手に語ります。一般的にはポートワイン(Port Wine)といわれるものです。

     

     

    日本の酒税法では甘味果実酒に分類されるものです。
    それもそのはず、酒精強化ワインで、まだブドウの糖分が残っている発酵途中にブランデーを加えて酵母の働きを止めたものです。そのブランデーはアルコール度数77度のものです。
    酒精強化ワインについては過去に掲載した下記の記事も参照ください。

     

    フォーティファイドワイン(酒精強化ワイン)
    世界三大酒精強化ワイン・マディラワイン

     

    ヴィーニョ・ド・ポルトは、その製法ゆえに、独特の甘みとコクがあります。
    アルコール度数も高く、通常のワインが10程度なのに対し、20度前後まであります。
    14世紀中頃から生産され始めたといわれ、生産地はポルトガル北部です。ポートワインと言われだしたのは、18世紀にポルト港からイングランドに大量に輸出されたことによります。ポルト(Porto)は英語のポート(Port)と同源の単語であることからポートワインと呼ばれるようになったのです。

     

    ポートワインの商標を認めている生産地域は、ポルトガル政府により決められていて、北部を流れるドウロ川上流のアルト・ドウロ地区が法定区域となっています。この地区で栽培されたブドウを原料とした酒精強化ワインだけがヴィーニョ・ド・ポルトなのです。
    ドウロ川はイベリア半島を流れる川で、水源はスペインのソリア県です。ポルトガルに入ってから名を変えて、大西洋に注いでいます。
    さらに、品質についてもポルトガル政府の機関により厳しく管理されています。そのためEU諸国においては、ポートワインの呼称は厳格に守られています。
    しかし、EU諸国を除くと、ポートワインは一般名詞の扱いをするケースもあり、特にアメリカなどでは自国産ブドウを使った酒精強化ワインをポートワインと呼んだりしています。

     

    そういえば日本でも以前、「赤玉ポートワイン」というのがありました。
    いつの間にか「赤玉スイートワイン」と変更されていました。

     

    ポートワインは甘さやアルコール度数だけが特徴というわけではなく、実は保存性についても特筆スべき点があります。
    品質の劣化が少ないのです。そのため、仮に封を切ったのち、1本を飲みきれなくても、風味の劣化が少ないため、それなりの期間、味が保証されます。

     

    赤も白もあるワインですが、やはり甘さとアルコール度数の関係から、食事とともに飲まれることはありません。白は「食前酒」、赤は「食後酒」という扱いが一般的でしょう。

     

  • 自由フランス(France libre)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は自由フランス(France libre)について勝手に語ります。

     

     

    ワインの産地フランスは、ヨーロッパという地域特性から、様々な戦争の歴史を繰り返してきました。
    今回はその戦争の中から第二次大戦中の自由フランスにフォーカスしたいと思います。
    自由フランスとは聞きなれないかもしれませんが、ドイツのフランス占領に反対して成立した組織のことです。パルチザン(Partisan)の一種といえます。
    特徴的なのは、亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)であった点です。
    1940年にドイツ軍によるパリ陥落後、ロンドンに亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴール将軍は、BBCを通じて歴史的な演説(en:Appeal of 18 June)を行いました。その内容が、国内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけるものでした。
    さらにド・ゴールは「フランス国民委員会」(fr:Comité national français)を設置し、イギリス国内にいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言しました。
    ウィンストン・チャーチルはこの委員会設置を支持し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人(Français libre)の主席」として承認したのです。

     

    最初にダカール沖海戦に参加しましたが、これは失敗に終わりました。
    それでもコンゴのブラザヴィルでは「海外領土防衛協議会」設置を宣言したことで、海外植民地の結集を図ることにしました。その結果、フランスの植民地の中で、赤道アフリカとカメルーン、ニューカレドニアとフランス領ポリネシアがこれに応じました。
    また、イギリスと自由フランスはエクスポーター作戦(Operation Exporter)によりシリアへと侵攻しました。
    独ソ戦開始後は、ソ連に外交攻勢を掛けることで関係を深めていきました。それにより、ソ連はド・ゴールを承認し、アメリカも自由フランスに対して武器援助を開始することに至ったのです。

     

    単なるゲリラ的なパルチザンのレベルを大きく超え、自由フランスはフランス国外のフランス政府のような勢いを持つこととなりましたが、ド・ゴールは自由フランスの「独裁者」でもありました。
    そのせいか、他国への要求も尊大な態度でのぞみ、連合国間での評判が悪化しました。
    1942年7月21日からは「戦うフランス(フランス語: France combattante)」と改称されました。

     

    1944年には、南米亡命者を中心とした義勇軍も自由フランス軍に参加したことで、兵力は40万人にまで達していました。
    そのような状況から「フランス共和国臨時政府」に改組する布告をし、ド・ゴールが主席となりました。これをイギリスに承認を迫ったものの、チャーチルは不快感を抱くことになりました。それでもイギリス全体の基本政策としてはド・ゴールを支持し、臨時政府が正式に発足することとなりました。
    この臨時政府承認については、ノルマンディー上陸作戦の際、チャーチル、アイゼンハワー、ド・ゴールの会談でも行われたほどでした。
    結局、ノルマンディー上陸作戦には自由フランス第2機甲師団が参加することとなりました。

     

    パリの解放に至ったとき、ド・ゴールもパリに入り、臨時政府も正式にパリに移りました。
    これにより、ようやくフランス国内でフランス政府としての活動を行うこととなり、連合国も正式なフランス政府として臨時政府を承認することとなりました。

     

    フランスでは、ド・ゴールの名前をいくつかの施設などに命名していますが、おそらくその代表格はパリのシャルル・ド・ゴール空港でしょう。
    ただ、彼が怒涛の勢いでつくりあげた自由フランスについては、あまり関心を持つ人も多くないでしょう。秋の夜長、ワインでも飲みながらフランスの歴史を学ぶのも良いかもしれません。

     

  • ホーエンツォレルン家( Haus Hohenzollern)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はホーエンツォレルン家について勝手に語ります。
    バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン」や「ホーエンツォレルン城」と合わせてお読み頂けるとありがたいです。また、この先にはプロイセンからドイツ統一へ、前には神聖ローマ帝国などが連なっています。

     

     

    プロイセンとの関係からすると、北ドイツの貴族というイメージがありますが、ホーエンツォレルン家はもともと南ドイツの出身です。シュヴァーベン地方です。
    居城はホーエンツォレルン城ですから、ドイツ帝国、ドイツ統一の立役者である北ドイツのプロイセンとは全く方向が違います。これこそがドイツ統一を遅らせていた理由にも関係することで、各地の領主が平面的・連続的に支配していなかったことになります。

     

    まず、フリードリヒ1世がニュルンベルク城伯に任じられたことで、シュヴァーベン地方だけでなく、フランケン地方の領地も得ることとなりました。
    その後に領地を分割し、長男のコンラート1世がフランケンの領地とニュルンベルク城伯に、次男のフリードリヒ2世にはツォレルン城とシュヴァーベンの領地を与えました。兄がフランケン系の祖、弟がシュヴァーベン系の祖となりました。
    フランケン系が後のプロイセン公国に繋がり、ビスマルクが宰相の時代に、ドイツ統一からドイツ帝国成立となりました。
    しかし、第一次世界大戦で敗北し、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世は亡命し、ホーエンツォレルン家のドイツ支配は終了しました。

     

    シュヴァーベン系には、ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家、ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家があります。
    ホーエンツォレルン城があるシュヴァーベンの領地を統治し続けたのがホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家で、最終的にフランケン系のプロイセンに侯領を譲渡し、領邦君主の地位をなくし、しかも嗣子がない状態で死去したため、家系は断絶しました。
    ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家も侯領を譲渡し、カール・アントンはプロイセンの宰相を務めることとなりました。
    彼の息子であるカロル1世は1881年はルーマニア国王に即位しました。これ以降、王制廃止までの期間は、カール・アントンの子孫がルーマニア王家でした。

     

    フランク王国もわかりにくいですが、ホーエンツォレルン家もわかりにくいといえます。歴史の必然で、分裂していくことは仕方ないとはいえますが、日本と違って国内だけで収まらないのが欧州の特徴です。
    秋の夜長、少し時間をつくってみて、複雑な歴史のほつれた糸を紐解き、優雅にワインを飲むのもいかがでしょうか。

     

    ちなみに「ホーエンツォレルン城」のときにも述べましたが、城としてはホーエンツォレルン城はノイシュヴァンシュタイン城より好きです。訪れたのはもう30年以上前で、そのときはVWゴルフを運転して行きました。
    まだ観光客も多くなく、駐車料金も安く、優雅なる城が廃城になった姿が実に鮮明に記憶に残っています。
    今はどうだろう? 観光客は増えたかな? 世俗化したかな? 
    これも秋の夜長に思うことです。

     

  • 世界最大の湖は、湖か、それとも海か?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカスピ海について勝手に語ります。

     

     

    カスピ海(Каспийское море)は世界最大の湖といわれていますが、湖なのか、それとも海なのか、実は論争がくりひろげられていました。
    湖でも海でも、どうでも良さそうな議論に思えるかもしれませんが、実は利権に関係することなので、沿岸の国にとっては大きな問題だったのです。
    カスピ海はユーラシア大陸で、中央アジアと東ヨーロッパの境界にあり、沿岸の国が5カ国にも及んでいます。塩湖であることから、湖ではなく海であるという主張もわからなくもなく、実に困った問題でした。ちなみに沿岸の国というのは、ロシア連邦のダゲスタン共和国、カルムィク共和国、チェチェン共和国とアストラハン州、アゼルバイジャン共和国、イランのマーザンダラーン州、トルクメニスタン、カザフスタンです。

     

    これらの沿岸国家の中で、イランは、カスピ海は湖だと主張してきました。
    その理由は明確で、地理的に見た場合、カスピ海は陸に囲まれていて、形状的に湖としか思えないというものです。
    これらの理由から、カスピ海が湖となれば、、国際的慣習から湖の水域内にある資源については、沿岸各国の共有財産となります。沿岸国家に均等に配分されることになるのです。
    ところが、これが海だとなると、国連海洋法条約の適用となります。均等配分ではなく、沿岸線の長さに応じた領海が設定されることになります。従って湖に面する長さが権益に比例することになるのです。
    イランは5カ国の中で沿岸線が最も短いだけでなく、湖底の天然資源がイラン側ではなく、北部や中央部に偏っていることから、海となると、イラン沖の南部までが領海となり、共有財産ではなくなってしまうのです。このことからもイランは、カスピ海を海だとすることは到底承服できる話ではなかったのです。
    しかもソ連時代には、カスピ海を湖としていて、キャビアはイランにとってもカスピ海の共有財産だったわけです。

     

    海であるとの主張が生まれたのはソ連崩壊により、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンが誕生したことによります。1990年代も半ばになると、カスピ海に豊富な天然資源があることが分かり、原油や天然ガスの埋蔵量も多いことが確認されたのです。
    新興のカザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンの3カ国は、カスピ海について、湖としては広すぎる点、塩水である点を主な理由として海であると主張しました。ロシアも最終的に海であったほうが得策と判断しました。
    これに反対したのがイランという構図だったわけですが、驚くべき大転回としてイランが譲歩し、海であるとの主張を認めることになったのです。
    イランはロシアとの関係強化を優先させたのではないかとか、対アメリカの関係が影響しているとか、様々な憶測がありました。

     

    ところで、このカスピ海沿岸ですが、1万年前の氷河期を生き延びた野生ブドウの原産地ではないかといわれています。
    氷河期が終わり、多くの植物は存続できなかったものの、たった1種類の野生ブドウだけが休眠から目覚め、それが繁茂していきました。ゆっくりと各地に広がり、ヨーロッパに土着していきました。それぞれの土地の気候条件に応じて進化し、それぞれの固有のブドウとなっていきました。
    その原点がカスピ海沿岸なのです。
    世界最古のワインもカスピ海と黒海にはさまれたコーカサス地方なのもうなずける話です。

     

     

    利権の絡む湖・海論争はともかく、この地こそがワインの原点ですので、カスピ海はワインの聖地であることに変わりはないでしょう。

     

  • オレゴン・ワイン(Oregon wine)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオレゴン・ワイン(Oregon wine)について勝手に語ります。

     

     

    アメリカのオレゴン州には303のワイナリーがあります。
    単にワインの生産だけでなく、ワイン・テイスティングを絡めた観光業としても発展し、ワイン観光業の総売り上げは9000万ドルを超えています。
    オレゴン・ワインの生産は1847年から始まりました。記録上最も古いワイナリーは1850年に設立したジャクソンヴィルで、移民の人々によりさまざまな品種のブドウが栽培されてきました。
    しかし禁酒法の時代になるとワイン生産は中断することになりました。以後30年間、禁酒法廃止までは休止期となりました。

     

    時代の転換期は960年代で、カリフォルニアのワインメーカーもオレゴン州に進出してきました。
    さらに、それまでブドウ栽培には不向きと言われていたウィラメット渓谷でも、ピノ・ノワールの栽培が始まりました。
    ウィラメット渓谷は、北端をコロンビア川、南端をユージーン市南部、西端をオレゴン沿岸部、東端をカスケード山脈となります。5,200平方マイルという広大な面積で、現在ではワイナリーの数も約200にまでなりました。またピノ・ノワールだけでなく、現在ではピノ・グリ、リースリング、シャルドネ多く生産されるようになりました。多くはないですが、カベルネ・ソーヴィニョン、ゲヴュルツトラミネール、ミュラー=トゥールガウ、セミヨン、ジンファンデルも生産しています。
    1979年には、ジ・アイリー・ヴィンヤーズがワイン・オリンピックのピノ・ノワール部門に出場し、世界最高級の評価を獲得しました。この地域のワインとしては初の快挙でした。

     

    その後もオレゴンワインは発展し、アメリカブドウ栽培地域(American Viticulture Areas, AVA)も確立しました。
    一方でフランスのブルゴーニュとの関係を強め、フランスのワイン農家がオレゴン州のダンディーに土地を購入することにもなりました。

     

    日本ではアメリカのワインと言うとカリフォルニアが真っ先に思い浮かびますが、オレゴンワインにも注目です。

     

  • チリ共和国(República de Chile)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチリワインとチリについて勝手に語ります。
    チリワインは長年「安ワインの国」というイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそれだけでなはく、世界各国に認められるワインも多数あります。

     

    チリ(アンデス)

     

    チリは「3Wの国」とも呼ばれます。

     

    綺麗な女性が多く(Women)
    天候に恵まれ(Weather)
    ワインが美味しい(Wine)」

     

    この3Wに恵まれた国だというわけです。
    新世界ワインの中でも安価だというのは事実で、ワイン生産に適した自然環境であるのは当然として、大資本による効率的な生産方法と人件費の安さなどにより実現できています。

     

    チリの人件費の安さは国民の所得格差が大きいことが関係しています。
    しかし、南米の中では最も経済・生活水準が安定しているといえます。政治面でも労働環境でも他の諸国と比較すれば恵まれているため、自由度も高いといえます。
    チリは、大航海時代までは欧州では未知な地域で、ヨーロッパから南米大陸へ人が訪れて以降、キリスト教の布教と戦争、さらに征服へと続く歴史になります。それ以前の時代には先住民のマプチェ族やピクンチェ族などが暮らす地域でした。
    ヨーロッパからの侵略以前にも、インカ帝国による征服もありましたが、南部地域は支配地に入ることなく、マプチェ族を中心とする居住地域でした。

     

    文化の面でも、スペインの征服以前はインカ帝国とマプチェ族によるものでした。
    スペイン征服後はスペイン人の文化的影響を強く受け、さらに19世紀初頭にはイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国の文化の影響を大きく受けることになりました。
    南部の地域、特にバルディビアやプエルト・モントなどは、19世紀後半にドイツからの移民が多く、このことからドイツのバイエルン地方の文化の影響が強くなりました。
    現在でも移民のコミュニティがあり、そこではドイツ語、イタリア語、クロアチア語が話されたりしています。公用語はもちろんスペイン語ですが、チリ最大の非公用語言語としてマプチェ語も残っています。

     

    ブドウ栽培にとっては理想的環境を誇るチリですが、ただ単に安くて美味しいワインという側面だけでなく、様々な面でチリを見ていくのも良いのではないかと思っています。機会があれば続きを考えています。

     

  • ボーデン湖(Bodensee)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボーデン湖(Bodensee)について勝手に語ります。

     

     

    ミュラー・トゥルガウ、シュペートブルグンダー(ピノ・ノワール)などのブドウ畑が湖畔の南向きの斜面に広がるボーデン湖は、ドイツ、オーストリア、スイスの3つの国に面し、アルプス地方ではレマン湖に次ぐ二番目の大きさを誇ります。その面積は約536平方キロです。
    沿岸地域ではワイン生産が盛んで、ヴァイスヘルプスト(「白い秋」)というロゼワインやミュラー・トゥルガウ種による白ワインなどが生産されています。

     

    ヨーロッパでも有数の景勝地ということもあり、夏は湖周辺道路では長期休暇を楽しむクルマの列を多く見かけます。
    人気なのは湖の西端に浮かぶマイナウ島で、ここは島全体が庭園になっています。バロック様式の教会や城が湖に浮かぶ姿は、幻想的な美しい景色となり、非日常的空有間を演出しています。花の島ともよばれています。
    同じように湖に浮かぶライヒェナウ島は世界遺産に登録されています。

     

    ボーデン湖の湖畔にある都市としては、ドイツ側がコンスタンツ、フリードリヒスハーフェン、リンダウで、オーストリアはブレゲンツなどです。これらの都市は観光客の拠点となっています。
    歴史的にも古い地域で、紀元前4世紀ころから湖畔に集落があったといわれます。
    最初の定住者はケルト人で、紀元前1世紀にはローマ帝国が進出し、拠点の一つとしました。
    そしてゲルマン人の大移動により、ゲルマン化された地域となり、フランク王国や神聖ローマ帝国などの支配地域となりました。中世以降は湖による交易活動の舞台となっていきました。
    特にリンダウ(Lindau)は、13世紀に神聖ローマ皇帝ルドルフ1世により帝国自由都市の地位が認められ、物流の拠点として栄えました。
    17世紀には三十年戦争に巻き込まれ、スウェーデン軍が迫ってきましたが、幸運なことに略奪は免れました。
    リンダウは、現在は鉄道で島まで橋沿いに乗り入れていて、ドイツ・アルペン街道の起点となっています。

     

    またボーデン湖にはライン川が流れ込み、ドイツ側へと流れています。
    ここからライン川は激流と変化し、ライン滝へと一気に流れ込んでいます。ここまでのダイナミックな滝は、ヨーロッパ随一ともいえます。
    工業用水として利用しているのはシュトゥットガルトで、ボーデン湖からパイプラインによって運ばれています。

     

    コンスタンツ(Konstanz)は、1414年のコンスタンツ公会議で知られる都市です。
    ここではボーデン湖アレマン語を使用する人が多く、日本人が学んできたドイツ語では、訛りがひどいという印象で、正直言ってよくわかりません。この言語は上部ドイツ語に属するもので、アレマン語という言語のさらに方言になります。単純な単語なのに、独特の言い方をされて、困ったという記憶があります。

     

    欧州では超メジャーな湖ですが、日本人はあまり訪れない場所です。
    景観や雰囲気を除けば、特に何があるという場所ではないため、長期休暇のとれるヨーロッパの人たちが、何もしない贅沢を満喫できる場所ともいえます。

     

  • 世界最古の砂漠にあるワイナリー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナミブ砂漠について勝手に語ります。

     

     

    ナビミアの現地民族サン人の言葉で「何もない」という意味を持つナミブ砂漠は、アンゴラとの国境付近から南アフリカ共和国北端にまで及びます。その距離、南北は1,288km、東西は幅48kmから161kmで、面積は約50,000km²になります。
    この広大な砂漠は、約8,000万年前にはすでに砂漠となっていて、現在までその基本的な姿を変えていないという、世界最古の砂漠といわれています。
    このナミブ砂漠に信じれない光景があります。
    何と世界最古の砂漠に青々としたブドウ園が広がっているのです。文字通り夢のような光景で、話だけ聞くには、にわかには信じられないものです。

     

    アフリカの砂漠という過酷な炎暑と、砂漠の風によって呼吸すらきついほどのほこりが舞う世界に、一体なぜブドウ園が?

     

    この砂漠にブドウ栽培を始めたのはアラン氏(Allan Walkden-Davis)という人物で、現在は年間3000本のワインを生産しています。
    普通に考えてありえないワイン生産ですが、実際、アラン氏が初めてこの地を訪れた1996年には、数年来の干ばつが続き、植物の大半は死に絶えていたそうです。
    それでもここでブドウを育てようとしたのは、20世紀初頭、つまり100年近い前に開拓した農地から水が湧いていていたのを発見したからでした。
    その時代、ドイツ人が入植してきて、農地を開拓したそうです。その地質断層から水が沸いていて、しかも、その時代に栽培されていたブドウが死に絶えることなく、未だに元気だったのです。

     

    アラン氏夫婦はこの地に1万4000ヘクタールの土地を購入し、ブドウ栽培からワイン生産へと進めていきました。
    ブドウ品種はシラーズからはじめ、次にメルローも加えていきました。100年前にドイツ人が使用していた灌漑用水路を改修し、それを現在でも使用しています。

     

    ちなみにですが、ナミブ砂漠の南部では、1904年にダイヤモンド鉱脈が発見されています。翌年には2,300万ポンドの生産量があったそうです。

     

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