今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • バハ・カリフォルニア半島

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はバハ・カリフォルニア半島について勝手に語ります。

     

     

    バハ・カリフォルニア半島(Península de Baja California)は「カリフォルニア」ではありますが、アメリカではなくメキシコにある半島の名です。
    メキシコ西部にあり、太平洋とカリフォルニア湾(コルテス海)を隔てている釣り針の形の半島で、その長さはティファナからサンルカス岬まで約1250kmもあります。
    この半島には2つの州があり、北緯28度線を境界として、北がバハ・カリフォルニア州、南がバハ・カリフォルニア・スル州です。

     

    実はここは、半島ではなく、島であると信じられてきた歴史があります。
    しかもその期間は16世紀から18世紀まで続いていたようです。
    ヨーロッパの人にとって、この半島の発見から入植した段階まで島という認識だったのです。
    発見は1533年で、エルナン・コルテスが派遣した遠征隊にいたフォルトゥン・ヒメネスによります。彼は謀反を起こし、バハ・カリフォルニア半島の南端にあたるラパス周辺の陸地を発見したのです。
    このラパス周辺については、コルテスが探検することとなり、入植地となりました。しかし、入植はそれほど進まず、バハ・カリフォルニア南端のみの探検から、コルテスはこの陸地は大きな島であると認識していました。

     

    しかも命名した「カリフォルニア島」は、1510年にスペインで発行されたガルチ・ロドリゲス・デ・モンタルボのロマンス小説「Las Sergas de Esplandián」に因んでいました。
    その物語では、インド諸島の先にカリフォルニアというこの世の極楽のような島があり、黒人女性たちだけが暮らしているというものでした。いわばアマゾネスの島で、女たちの軍勢と断崖絶壁の自然の城壁により、難攻不落な場所だといいます。
    しかも、この島にある金属は金しかなく、したがってアマゾネスの武器も金製だというのです。
    女王はカリフィア(Califia)という名で、この女王の名が島の名の由来になっていました。
    このモンタルボの創作した伝説の島こそが、「カリフォルニア島」だったのです。

     

    実はここが半島であることは、1539年にはわかっていました。
    コルテスはフランシスコ・デ・ウリョアに「島」を太平洋岸に沿って北方へと派遣したのです。その結果、ウリョアはコロラド川の河口に到達したことで、カリフォルニアは「島」ではなく、半島であることが判明したのです。
    その後、16世紀にはヨーロッパで出版された地図にも、カリフォルニアは半島とし記されていました。
    ところが1622年に発行されたアムステルダムのミシェル・コリジン作成の地図には、再び「カリフォルニア島」となって記され、その後も断続的に18世紀に至るまで、島は消えたり現れたりしたのです。

     

    さて、このバハ・カリフォルニア半島ですが、エンセナーダ(Ensenada)という都市があります。人口は約52万人の都市で、この近郊にグアダルーペ・バレーがあります。
    ここは知る人ぞ知るワインの一大産地で、1980年代から本格的なワイン造りが始まりました。ワイナリーの数も100以上あるといいます。
    メキシコで最高級のワインは、すべてグアダルーペ・バレー産ともいわれます。

     

    ここは本格的なワイン生産以前からブドウ栽培は小規模ながら行われていました。
    それが1905年頃だといいます。
    ロシア正教のモロカン派(Молока́не)という、1660年代にロシアから追放された一派の一部がメキシコに移住していました。
    砂漠に近い土地でしたが、ブドウの栽培を始め、ブドウを販売していたのです。
    そのような土地に、1988年になってドイツ系のハンス・バックオフ・シニアがワイナリーを創業しました。彼は科学者でした。
    このワイナリーで初めて高品質ワインの醸造を手がけ、ヨーロッパ、特にフランス、イタリア、スペインから醸造業者を招くとともに、それぞれがそれぞれの地元品種を持ち込んできました。
    そのため、種々雑多な品種と醸造ノウハウが入り混じったワインという印象を抱くかもしれませんが、結果的に高品質なワインを生産していることは事実です。

     

    伝説の島から複雑なワイン生産まで、興味はつきない場所です。

  • シルヴァンシャー宮殿と乙女の塔

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアゼルバイジャンについて勝手に語ります。

     

     

    アゼルバイジャンで初めてのユネスコの世界遺産登録となったのが、「城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔」です。
    バクーはアゼルバイジャン共和国の首都で、カスピ海西岸に突き出たアブシェロン半島の南岸にあります。バクー湾に面して市街地が広がっているため、地形に沿って湾曲した街になっています。
    人口は200万人ほどで、南カフカース地域有数の大都市です。

     

    そのバクーの旧市街に城壁があり、この地区には様々な文化が入り混じった歴史的遺物があります。
    具体的にはゾロアスター教寺院、イスラム教の高等教育機関だったメドレセ、モスク、シルクロード商人の隊商宿等々です。
    これは、もともとバクーがペルシア人の多く住む都市であったことから、ゾロアスター教徒が多かったものの、その後にアラブ人の侵入によりイスラム教が入ってきました。さらにテュルク系の遊牧民も侵入してきました。
    1585年にはオスマン帝国に征服され、次にロシア帝国が占領し、ロシア人による近代都市建設に至りました。
    そのため、各宗教・各民族の侵入から、様々な文化が共存したり、混ざり合ったりした独特の街になったのです。

     

    シルヴァン・シャー宮殿と乙女の塔もあわせて世界遺産登録されました。
    その乙女の塔ですが、この名を冠したワインもあります。
    もともとジョージアと並んでアゼルバイジャンはワインの産地で、コーカサス有数の上質なワインを多く生産しています。コストやクオリティまで含めると、ジョーアジアのグルジアワインと比較しても、あるいはフランスワインと比べても、決して劣らない実力があります。

     

    現在の宗教分布を見れば、完全にイスラム教の国といえますが、ワイン生産には影響はありません。
    ぜひ、アゼルバイジャンのワインを試して頂きたいと思います。

     

  • 張騫のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は張騫について勝手に語ります。

     

     

    中国の前漢代では、大月氏に対して、対匈奴戦略としての同盟を説くために、使者を募集していました。これに応募して選ばれたのが張騫でした。
    大月氏と匈奴との関係でいうと、もともとは月氏が紀元前2世紀に匈奴に敗れ、中央アジアに移動し、そこで月氏は大月氏と呼ばれるようになっていました。このことから、漢は、大月氏は匈奴のことを恨んだ緊張状態であると見ていました。
    漢としては、この緊張状態を利用して大月氏との同盟関係により、対匈奴戦略とするようにしたのでした。

     

    そして張騫を筆頭にした100人余りの使節団が派遣されました。
    ところが、隴西(現在の甘粛省)を出てすぐに匈奴に捕らえられてしまいました。さらに、張騫の目的が大月氏への使者であることを知り、大月氏に至る手前の領土は匈奴であり、そこを無条件で通過することができるわけないとのことで、張騫をその後10余年間に渡って拘留してしまったのです。
    囚われた張騫でしたが、漢の使者の証である符節を手放さなず、その姿、態度が匈奴にとっても勇敢であるとして、妻を与えたりしました。子供も生まれました。

     

    そんな中、張騫は匈奴からの脱出に成功しました。
    大宛に到達すると、ここの王は張騫を歓待しました。最終的に康居へ立ち寄り、その後に大月氏の領土にはいることができました。
    張騫は大月氏の王に漢との同盟を説きましたが、王はこれを拒否しました。
    大月氏としては、匈奴への恨みや復讐心はなく、単なる過去の物となるほどに、現在が繁栄しているというのです。
    実際に、逃げてきた地は豊かな場所で、シルクロードの中継貿易で栄え、しかも周囲には脅かされるほどの強敵がいませんでした。わざわざ漢と同盟を結び、匈奴に対して歩調をあわせる必要がなかったのです。

     

    張騫は失意のまま帰国することになりました。
    帰路は崑崙山脈に沿い、チベット系民族の羌族の支配地を経由しましたが、ここでも匈奴に囚われてしまいました。
    ただ今回は匈奴の情勢に変化がありました。匈奴の内部対立があり、その隙を突いて脱出するまでの期間は1年程度でした。
    ようやく紀元前126年に漢へと戻ってきました。
    過酷な旅だったのを物語るのは、出発時の100人程度の随行員が、帰還時にはわずか2人に減っていたことでもわかります。

     

    本来の目的だった同盟は達成できなかったものの、張騫が西域で収集してきた知識や情報は漢にとって貴重なものでした。
    漢にとって未知なる西域の状況が解り、漢にとっての新しい対匈奴戦略へも繋がりました。
    また、西域の知識に付随してブドウとワインの醸造技術まで持ち帰ったといわれます。
    しかし漢で直接ワイン生産をすることにはならず、シルクロードでワインの醸造が行われるようになり、ワインは皇帝や貴族に好まれるようになりました。

     

    さて、張騫ですが、紀元前123年に匈奴への遠征軍と一緒に出発しました。ここで地理知識を大きく活かされたことで、衛尉・博望侯と出生しました。ところが、翌年の遠征では、期日に遅れた罪で死罪となってしまったのです。
    このこときは金銭で解決し、死刑は免れましたが、身分は庶民に落とされました。
    なんとも人間味のある張騫ですが、彼の西域での経験は漢のその後の様々な策に繋がり、西域諸国が漢との交易も可能にし、匈奴に対しても有利な立場へとなっていきました。

     

    張騫の齎したワインも興味ありますが、この激動の人生や、匈奴に残してきた妻や子供なども興味深くあります。

     

  • オランダの「海の国」

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオランダのゼーラント州について勝手に語ります。

     

     

    国内に130の商業ブドウ園があるオランダは、ヨーロッパのワイン生産国としては地味で、日本人には馴染みがないといえます。
    オランダでブドウ栽培を行う州にゼーラント州(Zeeland)があります。
    地名の意味は「海の国」で、実はニュージーランドの国名の由来となったものです。

     

    州都はミデルブルフ(Middelburg)で、都市の人口は47,000人程度ですから、規模は小さいといえます。
    しかし、重要な商業の中心地として栄えてきた歴史があります。中世の時代には、イギリスとフランドルの間の交易で、ミデルブルフが果たす役割をはなり大きいものでした。
    さらに17世紀にはオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)の貿易拠点にもなりました。

     

    オランダは16世紀後半に、スペインやポルトガル対抗するため、独自でアジア航路を開拓する必要から、いくつかの商社が東南アジアに進出していきました。
    しかし、オランダ内で商社同士が価格戦争に陥り、他国との経済競争に不利になっていきました。
    そこで、複数の商社をまとめ、オランダ連合東インド会社を発足させたのです。
    その勢いは広がり、中国には進出できなかったものの、台湾は占領するに至りました。この台湾統治時代は1624年から1662年までの37年間に及びました。
    ちなみにこの時代の台湾は、現在とは異なり、人も極端に少なく、漢人もわずかに移住していた程度の島だったようです。

     

    そんな東インド会社の貿易拠点だったミデルブルフですが、のちの1940年5月17日、ドイツ軍の爆撃を受けることになりました。中心部分はほとんどが破壊されました。
    それでも第二次世界大戦終結前に、復元が始まっていたといいます。

     

    海の国で生産されるワイン、ぜひ味わってみたいです。

  • ワインの誕生

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインの誕生について勝手に語ります。

     

     

    ワインをプレゼントとして手渡し、もしそれを一緒に飲むようなことになれば、ワインについての薀蓄を語れたほうがサマになるかもしれません。
    そこで、今回はワインに関する薀蓄、ワイン誕生編です。

     

    ブドウのモトともいうべき植物の祖先は、今から1億4千年以上も前からあるといわれます。
    しかし、氷河期により、この初期ブドウ属はほとんどが絶滅状態になったそうです。
    ところが1万年前頃に、ブドウが再び繁茂するようになりました。
    われわれの祖先はこのブドウを食べるようになりました。つまり、他の果実と同じように食用だったわけです。

     

    では、ワインがなぜ誕生したのでしょうか?
    実はこの誕生については、偶然によるものだったようです。
    紀元前6000年頃のことです。
    黒海やカスピ海の沿岸地域、現在のジョージアで、ブドウを絞った液(要するに100%ブドウジュースです)を貯蔵していましたが、自然発酵により偶然ワインになったといわれています。
    この偶然こそ、ワインの発酵を知らない当時の人々にとっては奇跡でもあったわけですが、やがてそれは人為的に生産できることがわかり、各方面へと伝わっていったようです。

     

    当時は貯蔵していたのは土器でした。
    これが様々な地域に伝わり、メソポタミアでもエジプトでもワイン用の土器が遺跡の中から発見されたりしています。

     

    古代ギリシアやメソポタミアでは、ワインは医療にも使われたりしました。
    咳止め、利尿剤、下痢止め、止血剤等々の効果効能が信じられたりしたそうです。
    そしてワインは「キリストの血」にもなり、イスラム教でも酒を禁じたものの、傷薬という扱いにしたりしたこともあります。

     

    シルクロードにより唐へも渡りました。8世紀です。
    平山郁夫シルクロード美術館には「胡人俑」がありますが、これは革袋を抱える人の土器で、革袋にワインが入っている姿だといわれています。

     

    いかがでしょうか?
    比較的軽いワインの話題になるかと思います。

     

  • ジュムフーリーイ・トージーキストーン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はタジキスタンについて勝手に語ります。

     

     

    複数の国にまたがり、平均標高5,000mに達する巨大な高原をご存知でしょうか?
    パミール高原(Pamir Mountains)です。
    タジク語では「世界の屋根」を意味する高原で、そのタジク語を母国語としている国がタジキスタンです。

     

    タジキスタンで公用語となっているタジク語はペルシア語方言です。
    旧ソ連の国であり、帝政ロシアからの関連からロシア語は第二言語でしたが、2009年に国語法が成立して以降は、公文書だけでなく、新聞などもタジク語使用の義務付けとなりました。
    パミール高原は国土の東側に位置し、中国との国境に至る付近は標高7000m級にまで達する高さがあります。「世界の屋根」と表現するのも大げさでないことがわかります。
    また、パミール高原だけでなく、国土は大部分が山岳地帯に属しています。ただし、首都のドゥシャンベの標高は1,000mを切っているので、それほどの標高はありません。
    タジキスタンの山の標高を高い順に並べると、イスモイル・ソモニ峰(7495m)、レーニン峰(7130m)、コルジェネフスカヤ峰(7105m)となり、この三つの峰が7000m級です。

     

    宗教はイスラム教のスンナ派が多いですが、ゴルノ・バダフシャン自治州の一部ではシーア派のイスマーイール派が大多数を占めています。シーア派はイスラム教の中では服装も戒律も極めて緩やかで知られています。
    そのためか、イスラム圏といえどもワイン生産され、街中で飲むことも可能となっています。
    中央アジアのワインは甘めのものが多いようですが、タジキスタンでは種類が多彩な印象があります。実際には行ったことがないので、あくまで想像の話ではありますが。
    タジキスタンのワインで忘れてはいけない特徴は、味より何よりコルクが短いことです。理由は分かりません。熟成させるワインではないのか、ただ単にコルクを節約しているのか。

     

    タジキスタンはロシアとソ連の関係が深いのですが、太古の時代にはペルシアとの結びつきが強かったといえます。
    最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境地域だったのです。
    シルクロードもあることから、様々な民族が往来し、侵入されたりしてきましたが、パミール高原を境として、中国やインド・アフガニスタン、またイランから中東への結節点として機能し、様々な文明の十字路という場所にもなっていました。

     

    次にイスラム勢力の侵入です。
    ペルシア本体がイスラム勢力に征服されたことで、アラブ人が大量に入り込み、最終的にイスラム教世界の一部になりました。
    20世紀以降はロシア革命の影響を受けたりして、ソ連の自治国家となり、さらに独立して現在のタジキスタン共和国になりました。

     

    ちなみに「タジキスタン」は日本語読みで、正式国名はキリル文字やアラビア文字で表記され、読み方は「ジュムフーリーイ・トージーキストーン」です。または「ジュムフーリーイ・タージーキスターン」となります。

     

  • ヒッタイト王国のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヒッタイト王国について勝手に語ります。

     

     

    紀元前のヒッタイト王国時代に記された中には、ワインについてだけでなく、ワインの価格についてまで記述された文献があります。
    また、ヒッタイト王国領土には、石版に国王がワインを嗜む様子も書かれていました。
    それほどまでにヒッタイト王国ではワインが普及していたことがわかりますが、ギリシアやローマと異なり、日本人にはそれほど知られていない古代王国になっているかと思えます。

     

    この王国の起源については、アニッタ(Anitta)文書などで知ることができますが、考古学的には未だ発見されていない部分も多く、建国についてはまだまだ謎の部分があります。
    アニッタについては、「ヒッタイトの大王」と名乗った王のことですが、文献的には記録上二番目に古いヒッタイト人の王となります。
    アニッタの前はピトハナ(Pithana)で、父親であり、記録上では最古のヒッタイト王になります。
    アナトリア半島の征服に乗り出し、ピトハナが樹立したアナトリアの小国を受け継いだのが、アニッタでした。それだけでなく、彼はハットゥシャ、ザルプワなどの都市国家を征服したことで領域を拡げていきました。
    ヒッタイト王国がこのような征服により帝国として誕生したわけですが、実は長く続きませんでした。建国して間もなく崩壊してしまったのです。
    崩壊後には歴史の記録もなくなり、遺跡も破壊された状態となりました。

     

    しかも建国者のピトハナ、アニッタ親子について、ヒッタイト人であったかどうかは分かっていません。
    ただ、この建国伝説により、後世のヒッタイト人にとっては、祖先という扱いにしています。
    そのため、ピトハナがヒッタイト王国の初代、アニッタが2代目としているのです。
    また、もともとピトハナはクッシャラの王でしたが、このクッシャラについては、どこにあったか謎のままです。おそらく中央アナトリアから南東にかけての地域ではないかといわれています。

     

    ワインの記述と関係するヒッタイト王国については古王国以降で、建国はラバルナ1世かハットゥシリ1世のいずれか、あるいは両者が同一人物だという説まであります。
    領土はメソポタミアに及び、バビロンも略奪に成功しています。しかし、バビロニアの直接統治はせず、カッシートに支配させました。
    このような領土拡大により、首都は無政府状態に陥り、ヒッタイト王国の混乱と弱体化をまねきました。

     

    ヒッタイト王国が再び歴史の表舞台に出たのは、紀元前1430年頃以降のことで、帝国時代と呼ばれる時代です。
    ヒッタイトは交易路と鉱山を掌握したことで繁栄しましたが、やがてアッシリアの台頭により、凋落していきました。
    古代の小アジアは、支配者の交代だけでなく、様々な軍の通り道でもあり、文化も入り乱れています。エジプトの関係もあり、キリスト教やイスラム教の影響も大きく受け、はるか太古の時代より定着していたワイン文化も、直接的に現代まで残っているわけではありません。
    ヒッタイト王国を知り、歴史あるワインを飲みなながら、そのような背景について、少し考えてみるのはいかがでしょうか?

     

  • ヴァルポリチェッラ (Valpolicella) とアマローネ(Amarone)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァルポリチェッラとアマローネについて勝手に語ります。

     

     

    ヴァルポリチェッラ (Valpolicella) はイタリアのD.O.C.ワインです。
    地理的にはヴェネト州ヴェローナ近郊が栽培地になり、この周辺にはワイン産地としてソアヴェ地域やバルドリーノ地域などもあり、北イタリアを代表するブドウ栽培地です。

     

    南西向きの急斜面にブドウ畑が広がり、日当たりもよく、のどかな風景が広がっています。近くにはガルダ湖 (Lago di Garda) もあります。
    この湖はベナーコ (Benaco) 湖ともいわれ、イタリア屈指の面積を誇る湖です。
    南北が52Kmと長く、東西では最も広い場所でも18Kmです。
    バルド群に属する山々に囲まれ、サルカ川によって形成された渓谷が湖となった部分と、新生代の氷河によって形成されたようです。
    湖から流れ出るのはミンチョ川です。
    場所的にドイツ語圏に近いこともあり、ドイツやオーストリアからの観光客が多いそうです。

     

    ヴァルポリチェッラのブドウ品種はコルヴィーナ、モリナーラ、ロンディネッラ、ロシニョーラ、ネグラーラ・トレンティーナ、バルベーラ、サンジョヴェーゼ等です。
    土壌は石灰質や砂岩質で、春先には雪解けにより水量が増加し、秋には雨も多いことから、全体的に水量豊富な地域といえます。
    気候的には温暖ですが、昼夜の寒暖差が大きい特徴もあります。これはガルダ湖の影響といわれています。

     

    また、ヴァルポリチェッラ地区でつくられる伝統的なワインをアマローネ(Amarone)といいます。
    アマローネの特徴は、収穫後にブドウを厳選し、それを陰干ししてからつくるワインです。
    この陰干しには、風通しの良い専用の部屋が用意されています。陰干しする期間は長ければ6ヶ月に及びます。
    さらに樽熟成は2年以上、瓶熟成が6ヶ月以上になります。

     

    イタリアワイン一覧

     

    フランスに劣らず、イタリアのワインも魅力あるのがわかるかと思います。

     

  • マウレ・ヴァレー(Maule Valley)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチリのマウレ・ヴァレーについて勝手に語ります。

     

     

    マウレ・ヴァレー(Maule Valley)はチリ最大のワイン産地です。
    チリは南北に細長い国で、北からの縦列で7番目に当たるのがマウレ州です。
    マウレ川に由来する地名で、その川が渓谷を成す地方がマウレ・ヴァレーになります。
    マウレ川はアンデス山脈が源流の川で、流域面積20,600km2あり、1/3がアンデス山脈内を流れています。
    そしてこの渓谷でチリワインの60%を生産しているのです。

     

    年間降水量はわずかに735mm程度と少なく、しかも雨が降るのは主に冬であることから、ブドウの生育期は雨がなく、乾燥し、気温も高めになります。そのため、ブドウの果実はしっかりと育ちます。
    また1日の寒暖差も激しく、その差が大きい時には18℃にもなるといいます。
    そのような条件が整い、ブドウの糖度が高くなっています。

     

    ブドウ栽培地は約30,000haもあり、ブドウ品種はカベルネ・ソーヴィニヨンやカルメネールなどの国際品種が中心です。
    しかし、かつては黒ブドウのカリニャンが中心だったようです。

     

    この地域はインカ帝国南境になり、マウレ川については、チリ文学に影響を与えた「最も優れた」川といわれています。
    マウレ州としても、人口の割に多くの著名人を輩出している州として知られます。日本人にはあまり馴染みのない人たちですが、チリでは著名な作家、詩人、ミュージシャンなどの芸術分野に限らず、大統領も科学者なども輩出しています。

     

    チリワインはある研究機関によると、ポリフェノール含有量が一番多く含まれるという研究結果を出しています。
    日照時間の長さがポリフェノール含有量に関係しているという研究のようですが、それはともかく、日本ではチリワインは比較的購入しやすい価格で販売されていて、その中でマウレ・ヴァレー産はたくさんあります。
    こんな背景を知りながら飲むのも良いかと思います。

     

  • ドブロジャ(Dobrogea)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はルーマニアのドブロジャについて勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアは国別ワイン生産量で世界第15位前後になります。
    実はワイン生産については、歴史が古く、キリスト教以前からされていて、6,000年前のワイン容器も発見されているほどです。
    今回は、そのルーマニアのワイン産地の中でドブロジャ(Dobrogea)を取り上げます。

     

    ドブロジャは地域の名称で、ドナウ川下流域から黒海にかけての地帯に相当します。北部がルーマニアですが、南部はブルガリア領に入ります。
    そのため、ブルガリア語ではドブルジャとなります。

     

    この地名の語源は、ドブロティチ(Dobrotici)に由来するといわれます。これはトルコ系クマン人の王の名前で、14世紀にこの地域を支配していました。
    クマン人はテュルク系遊牧民族で、一般的には「キプチャク(Qipchaq)」といい、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯にいました。

     

    また、この地域はルーマニアで最も温暖です。
    標高としては平均で200~300mの丘陵地帯になります。高い山塊はなく、最高峰のマチン山塊でも467mです。
    ただ高原地帯だけでなく、ドナウ・デルタもあり、黒海沿岸はリゾート地にもなっています。
    赤ワインも白ワインもに生産されています。赤ワインの「ムルファトラー」が代表的な銘柄です。

     

    ルーマニアとブルガリアに跨っている関係で、ブルガリア復帰を求めて戦ったブルガリア人の革命組織として、内部ドブルジャ革命組織(Вътрешна добруджанска революционна организация)などもありました。
    当然ながらルーマニアからはテロリストの扱いですが、ブルガリア側では解放運動とみなしていました。
    その成果もあり、クラヨヴァ協定により、1940年に南ドブルジャがてブルガリアに返還されたことで活動はなくなりました。

     

    黒海沿岸のリゾート地のイメージとは別に、民族紛争の舞台でもあり、良質なワイン産地でもあるドブロジャ(Dobrogea)は、日本ではあまり情報がありません。
    それでも注目したい地域です。

     

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