今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ドライフリュッセシュタット

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパッサウについて勝手に語ります。

     

     

    中世からワインや穀物、塩などを貯蔵し、河川航行によって物流基地としての重要な収入源になっていたパッサウ(Passau)は、、ドイツ南東部に位置します。
    バイエルン州に属する都市ですが、ミュンヘンからは電車で2時間以上かかる距離にあります。国境もオーストリアとチェコに接しています。
    「ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt)」の異名があります。意味は「3つの河川の街」となります。
    それもそのはずで、ドナウ川(Donau)、イン川(Inn)、イルツ川(Ilz)という3つの河川がここで合流するからです。 西からはドナウ川、南からはイン川、北からイルツ川が流れてきます。

     

    またこの街で有名なものといえば、世界最大のパイプオルガンです。
    それはシュテファン大聖堂(Stephansdom)にあります。
    14世紀後期のゴシック様式で建設されましたが、一部を除いて1662年に火事で破壊されてしまいました。再建の際に、聖堂はバロック様式に変わりました。
    見た感じは全体的に地味な印象かもしれません。特に西側正面は荘厳さがありながら、どこか質素な印象も抱きます。世界最大のパイプオルゴンのある聖堂という感じはしません。
    このパイプオルガンは1928年に作り直されています。世界最大といわれるだけあって、1万7388本のパイプと231の弁装置を持っています。有料ですが、リサイタルもあるので、世界最大の音色を聴きに行くだけでも価値があります。

     

    パッサウは川を使った交易で栄えた都市ですが、神聖ローマ帝国で最大規模の司教区でもありました。
    ザルツブルク大司教と肩を並べるほどといわれ、15世紀まではオーストリアのドナウ流域全体を包括していたほどです。その地域の中にはウィーンも含まれていました。
    「パッサウ条約」の舞台でもありました。これはアウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)への流れを決定づけたものです。
    ドイツの中欧地域でのプロテスタント容認の決議への第一歩でした。
    しかし、この宗教和議については、ハプスブルク家の帝国支配への道は閉ざされたものの、カルヴァン派は認められず、あくまでルター派だけの容認ということもあり、のちの悲惨な三十年戦争の契機ともいえました。

     

     

    パッサウの中心部は川に挟まれていることで、狭く、広い道路もありません。
    しかし、それこそがドイツの都市らしい雰囲気を残し、さらに交易により様々なワインがここに集まったと思うと、ここで各地域のワインを飲み比べてみるのも悪くありません。
    電車では不便かもしれませんが、ここには以前、クルマで行きました。川沿いのドライブも悪くありませんでした。

     

  • 古代カルタゴから続くアルジェリアワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルジェリアについて勝手に語ります。

     

     

    アフリカ大陸にあり、地中海世界とアラブ世界に属するアルジェリアは、アフリカ大陸で最も領土が広い国であり、世界では第10位の領土面積を誇ります。
    古代にはカルタゴの植民都市が築かれ、その時代からワイン生産が行われていたといわれます。
    地中海の覇権を賭けて争ったポエニ戦争を経て、カルタゴは滅亡に至り、紆余曲折の末、ユリウス・カエサルによってローマ共和国の属州となりました。
    さらにはヴァンダル族の征服や東ローマ帝国の征服もありましたが、大きく変化したのはイスラム勢力の侵入といえるでしょう。

     

    アルジェリアのイスラム化は8世紀に入ってからで、ルスタム朝が誕生しました。
    首都は内陸部のターハルトで、ここはサハラ交易の縦断路上に位置していたことから商工業が発展しました。「マグリブのイラク」と称され、金、黒人奴隷、穀物、皮革などの商品が取引されていました。

     

    16世紀からは、オスマン帝国とスペインの進出に阻まれた地域となり、最終的にオスマン帝国の属州となりました。
    このようなイスラム化により、ワイン生産は途絶えるようになりました。

     

    ワインにとっては、転機が19世紀でした。
    1830年にフランスが進出し、アルジェを占領し、その直後の1847年に全アルジェリアを占領下においたことで、フランスの植民地となりました。
    このときに、アルジェリア北岸にあるアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県が設置され、この三県に限ってはフランス本国と同等の扱いを受ける地域となりました。そのため、ヨーロッパから多くの人がフランス領アルジェリアへと入植してきました。
    そして古代カルタゴからローマ帝国支配以来のワインが復活しました。

     

    地中海沿岸から内陸にかけての温暖な地域でブドウが栽培され、新たなワインの名産地となっていったのです。
    アルジェリアとしては1962年7月5日にアルジェリア民主人民共和国として独立しました。これはアルジェリア戦争を経ての独立で、この戦争の最中にサハラ砂漠でフランスの核実験が行われたことでも知られています。

     

  • ブルゴーニュのクリマ(Climat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブルゴーニュのクリマについて勝手に語ります。

     

     

    2015年の7月4日に「ブルゴーニュのクリマ」はにユネスコの世界遺産に登録されました。
    ディジョン、ボーヌ、マランジュなどのブドウ畑が世界遺産になったのです。ブドウ畑の景観だけでなく、建築物、そして、ブドウ畑を開墾する独自ノウハウまでを文化遺産として認定されました。

     

    登録名の「クリマ」(Climat) とは何かというと、ブルゴーニュのブドウ畑の小さな栽培区画のことになります。
    世界遺産の認定は、1,247カ所のクリマが選ばれ、ボーヌ市街、ディジョンの歴史地区も含まれています。
    クリマという栽培区画ですが、これは単にブドウ畑の区割りという以上に、それぞれの区画のテロワールを意味しています。しかも区画は数世紀をかけて画定されたもので、それぞれの区画に名前があり、歴史があります。
    当然ながら、テロロワールの違いは味の変化にも繋がり、格付けにも関係してきます。
    世界遺産認定のクリマには、世界的に有名なものが多く含まれ、例えば、シャンベルタン、ロマネコンティ、クロ・ド・ヴージョ、モンラッシェ、コルトン、ミュジニーなどもあります。

     

    ブルゴーニュ地方でのブドウ栽培からワイン醸造は、修道院との関係が深いのですが、フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)の影響もあるといえます。
    フィリップ2世は、ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公で「豪胆公」(le Hardi)と呼ばれます。
    フランス王ジャン2世(善良王)とボンヌ(ボヘミア王ヨハン(盲目王)の王女)の四男です。
    彼は武勇に優れ、権勢拡大をした人物です。
    ブルゴーニュ公領を与えられたのは1363年ですが、それだけでなく、フランドル、アルトワの伯領も領有し、欧州最大規模の裕福な領土を有していました。しかも1390年にはシャロレー伯領も獲得し、この伯位はブルゴーニュ公の相続人に与えられるようにもなりました。

     

    そんなフィリップ2世は、当時ブルゴーニュで栽培されていた赤ワイン用ブドウ品種の中で、最も質の良いピノ・ノワールだけを栽培させることにしました。他の品種の栽培を禁じたのです。
    これは現代でも続いているわけではなく、19世紀にはピノ・ノワールよりガメのほうが多く栽培され、コート・ドールの栽培面積を85%以上を占めたりもしました。しかし、現代では、コート・ドールで使われる赤ワイン品種はピノ・ノワールになっています。

     

    ブルゴーニュワインを探す

     

  • ドナウの泉

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドナウエッシンゲンについて勝手に語ります。

     

     

    欧州の大河であるドナウ川には、沿岸にブドウ栽培地もあります。
    例えば、オーストリアのヴァッハウ渓谷 (Wachau) のクレムスからほど近い、ミヒャエル・マラットのワインブティックホテル・マラットなどはオーストリア政府の観光局公認サイトにも取り上げられているほどです。

     

    このドナウ川ですが、どこが源泉なのかというと、ドイツのシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)にあるドナウエッシンゲン(Donaueschingen)です。
    人口わずかに21,000人程度の小さな街ですが、ここからヴォルガ川に次ぐヨーロッパで2番目に長い大河が始まります。
    ドナウエッシンゲンには、フュルステンベルク公が居住していた城館があり、そこの庭にドナウの泉と呼ばれる小さな泉があります。この小さな泉こそがドナウ川の源泉といわれ、観光名所にもなっています。
    泉そのものは、どこにも特徴のないものですが、彫刻で飾られ、何といってもドナウ川のスタート地点ということで、観光客が集まってきます。
    しかし、地理学上では、この泉から流れるのはドナウ川の支流という扱いで、ドナウ川の源泉とはいえないようです。

     

    では、本当の源泉はどこかというと、実は少し難しい問題になります。
    と、いうのも、ドナウ川の名称はブレク川とブリガッハ川が合流した地点から先なので、源泉とするなら、ブレク川とブリガッハ川のそれぞれの源泉がドナウの源泉と呼べれるのかもしれません。
    ちなみにドナウエッシンゲンの郊外にはウニペルスの泉があり、こちらは市街地の飲用水に利用されていました。
    いずれにしてもドナウ川の源流地域で、水が豊富な場所であることに変わりはありません。

     

    良質なワイン産地には、きれいな川がセットになるケースもあります。
    ドナウ川は、そんな川の一つであることに間違いはありません。

     

  • ポンパドゥール夫人

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はポンパドゥール夫人について勝手に語ります。

     

     

    ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の格言です。

     

    「シャンパンは、飲んだあとも女性が美しいままでいられる、ただ一つのワイン」

     

    シャンパンというところが、いかにも浪費を象徴するポンパドゥール夫人らしいといえます。

     

    ポンパドゥール夫人は、正式な名はジャンヌ=アントワネット・ポワソン( Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour)で、一般的なイメージとしては、湯水のように金を使う浪費家で、邸宅も多く建てながらも、美貌だけでなく学芸的な才能に恵まれた人物でしょうか。
    サロンを開催して、ヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んでいた人物でもあります。
    貴族出身ではなく、パリ市内の銀行家の娘として生まれました。
    結婚していましたが、ルイ15世の目に留まり、ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられることになりました。当然、結婚していた夫とは別居です。

     

    正式にフランス国王の愛妾となったことで、現在のフランス大統領官邸であるエリゼ宮をはじめ、数多くの邸宅を建てさせました。
    さらに、国王のルイ15世に代わって権勢を振るうようになりました。
    ベッドの上でフランスの政治を牛耳ったことで、「影の実力者」ともいわれるほどで、ポンパドゥール夫人の「私の時代が来た」という言葉はまさに言い得ていました。

     

    反プロイセン包囲網を結成したのは3人の女性ですが、ポンパドゥール夫人がマリア・テレジア、エリザヴェータと通じたことで出来たものです。
    これはオーストリアとの和解を生み、のちにマリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐことに繋がりました。

     

    美を武器にしたポンパドゥール夫人が、女性を美しい状態のままでいられる飲み物として、シャンパンを挙げたので、今宵は女性にシャンパンをススメたくなります。

     

  • グレート・リフト・バレー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は大地溝帯について勝手に語ります。

     

     

    アフリカ大陸には南北に縦断する巨大な谷があります。
    大地溝帯(グレート・リフト・バレー・Great Rift Valley)と呼ばれるプレート境界です。その規模は大きく、総延長は何と7,000 kmもあります。幅は短いところでも35km程度、長いところでは100kmもに及びますから、あまり谷という印象はないかもしれません。
    急な崖も多く、中には落差が100m以上の場所も随所にあります。

     

    大地溝帯にある地域では、そのまま州の名が「リフトバレー州」となっている国があります。
    ケニアです。

     

    ここではケニア唯一のワイン用ブドウの収穫が行われています。
    標高は1マイルといいますから、約1,600mになります。
    赤道までは、わずか2km程度にあり、ケニアの首都ナイロビ(Nairobi)からは90km程度の位置です。
    ワインベルトから外れた赤道近くの地域は、四季がなく、ブドウ栽培は困難を極めたといいます。販売まで約10年の歳月を要し、試行錯誤の末に良質なワインが完成しました。
    ケニアのワインというだけで希少価値がありますが、国際的なワインコンクールでも賞を獲得した実力派でもあります。

     

    ところで、グレート・リフト・バレーですが、「人類生誕の地」とも呼ばれています。
    フランスの人類学者イブ・コパンによれば、グレート・リフト・バレーのあるアフリカ東部は、もともとは熱帯性の大森林だったが、大地溝帯の活動により、周辺に隆起帯が形成され、山脈などが形成されたといいます。
    その結果、大西洋側から流れてくる湿った空気をさえぎられるよになり、グレート・リフト・バレーの東側は乾燥化することとなりました。森林がなくなり、サバンナへと変化していきました。
    そのため森林を居住場所としていた類人猿は、乾燥化による環境変化に適応できませんでしたが、ヒトの祖先は森林の樹上から地上に降り、環境の適応していきました。木から木への移動から、地面に降り、直立二足歩行をすることによって環境に適応するようになったというのです。

     

    しかし、これはあくまで仮説であり、その後の調査で信憑性が薄くなりました。その大きな調査としては、グレート・リフト・バレーからはるかに離れたチャド北部でもトゥーマイ猿人が発見されたことによります。
    最初期の猿人は、グレート・リフト・バレー地域だけでなかったことがわかったからです。

     

    それはともかく、なんとなくロマンのある地域であるのは間違いありません。
    その近くでケニアのワインが醸造されているわけですから、それにもロマンが付加価値になっている気もします。

     

  • 欧州の交差路

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスロヴェニアワインについて勝手に語ります。

     

     

    フランスのボルドーと同じ、北緯45度に位置するスロヴェニアは、ブドウの収穫に適した地域で、小さな国土ながらワイナリーの数は2万8,000を超えるといわれます。
    中央ヨーロッパにあるため、ヨーロッパそれぞれの文化や交易が入り込み、まさに欧州の交差路になっています。
    人口はわずかに205万人程度、パリの人口より少ないほどです。
    国境に接しているのは、イタリア、オーストリア、クロアチア、ハンガリーで、アドリア海にも接しています。

     

    この地域でのワインの歴史は古く、紀元前400年頃には、ケルト人によってワイン造りが始まったとされています。
    その後はローマ帝国の支配下に入り、ケルト人によるワイン生産は衰退しますが、ローマ帝国の影響下でのワイン生産は活発化し、産業として発展していきます。
    6世紀ごろからは南スラヴ人が定着していきます。
    国家としては、7世紀に入ってからカランタン人によりカランタニア公国ができました。独立国だったのはわずかな期間で、バイエルン人に支配され、そのあとにフランク王国の支配下になります。
    14世紀以降になって、神聖ローマ帝国の一部にもなりました。
    ブドウ畑はカトリック教会の所有となっていたため、ワイン醸造については、祭司や修道士が担っていました。
    神聖ローマ帝国への編入前から、ハプスブルク家、オーストリア=ハンガリー帝国などの領土となる時期には、ワイン生産者の権利と義務が認可される法律が制定されたり、ブドウ畑の仕事の指示書が完成したり、さらには18世紀になってからワインセラーに関するマニュアルの発行などがありました。

     

    19世紀になって、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国が支配し、スロヴェニア語が公用語のひとつとなったりしました。このフランス統治時代に、スロヴェニア語が公的地位を得ることに成功したのですが、ナポレオン後は、ウィーン会議により再びオーストリア領に戻ってしまいました。
    その後の歴史は第一次大戦、第二次大戦を経てユーゴスラヴィアの社会主義時代を迎えます。

     

    ただし、ユーゴスラヴィアは、他の東側祖国と異なり、ソ連の影響力が低く、むしろユーゴスラヴィアは西側諸国との友好関係を維持していました。
    完全独立は十日間戦争と呼ばれる独立戦争によります。10日間で集結した戦争でした。
    当時、スロヴェニアは、ユーゴスラヴィア構成国の中で最も高い経済水準を誇っていました。人口はユーゴスラヴィア総人口のわずか10%弱であるにもかかわらず、構成国別では、雇用、所得、輸出の数値は最高値で、マケドニアと比較すると、経済格差は8倍程度だったほどです。
    また、民族で見ても、均一性が高く、民族間の問題もなかったことで、独立はある意味、必然性の高いものだったかもしれません。

     

    さて、現在のスロヴェニアのワイン用ブドウですが、52種類あるといいます。白ブドウが37種類で全体の70%、黒ブドウが15種類で30%を占めています。
    ワインの消費は自国内が主ですが、輸出しているものもありますので、機会があればぜひ味わって頂きたいワインです。

     

  • トランシルヴァニア

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトランシルヴァニアについて勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアはブドウ畑の面では東欧随一の規模を誇ります。
    ワインに関する法律では、2006年にEUへ加盟したことで、改正されました。
    具体的には格付けが、4段階から3段階になりました。この3段階とは、D.O.P(保護原産地呼称)、I.G.P(保護地理的表示)、Vinuri fara Indicatie Geografica(地理的表示のないワイン)で、D.O.Pは33の産地、I.G.P.は12の産地になっています。
    D.O.Pについては、ブドウの収穫時期に応じてさらに3段階に分かれます。

     

    そんなルーマニアのワイン産地の中で、トラシルヴァニア(Transylvania)のワインは、白ワインが中心で、D.O.P.ではタルナーヴェの白ワインが有名です。

     

    トランシルヴァニアはルーマニア中部に位置しますが、ハンガリーの時代とルーマニアの時代では、トランシルヴァニアの範囲が若干異なります。境界線の変更により、現在のルーマニアでは西部の一部が「モルダビア」に組み込まれています。
    居住している人は、歴史的背景そのもので、ルーマニア人8割、ハンガリー人2割だそうです。第二次大戦前はドイツ人もいましたが、戦後に追放されています。
    ドイツ人の東方植民(Ostsiedlung)が12世紀頃からあった影響が続いたものの、オスマン帝国配下でもトランシルヴァニア公国として独立した国もありました。
    しかし、やはりドイツ語圏のオーストリア領になり、ハンガリー支配、ルーマニア併合など、欧州らしい激動の支配者交代を経験している地域です。

     

    トランシルヴァニアで絶対に外せない見どころは、世界遺産に登録されている要塞教会でしょう。
    文字とおり、要塞の機能を備えた教会ですが、この教会を中心にして集落を形成していったのです。なぜなら、オスマン帝国の脅威があり、異教徒の勢力に対する防御が必要不可欠だったからです。
    要塞教会は1600年頃に600程度にまで増え、いわばこの時期が最盛期でした。
    現在でも300程度が残っていて、世界遺産の登録は、その中の保存状態の良い7か所です。

     

    ルーマニアのワインの中でも、トランシルヴァニア産というだけで、このような歴史の重みまで感じ取れます。
    機会があれば、ぜひ、飲んで頂きたいワインです。

     

  • ハンブルク=アルトナ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルトナについて勝手に語ります。

     

     

    かつて存在したホルシュタイン公国(Herzogtum Holstein)は、神聖ローマ帝国の最北端に位置する国でした。
    現在はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州を中心とした地域となりますが、この公国はデンマーク領でした。
    さらにいえば、ハンザ同盟都市のハンブルクと隣接していることから、その中のアルトナは、現在ハンブルク市に属しています。

     

    ハンブルクのアルトナは、鉄道でドイツを旅する人からすれば、もしかしたら聞いたことがあるかもしれません。
    なぜなら、ハンブルクは他のドイツ諸都市と異なり、終着駅のターミナルが中央駅ではありません。それがアルトナ駅なのです。そのため、行き先表示でアルトナの文字を見かけることがよくあります。
    もともと別の国だったせいか、中央駅周辺の雰囲気とアルトナ地域は、全く雰囲気が異なります。港の関係では、アルトナのほうが強く、そのせいか、様々な人種や宗教についての寛容性があったかもしれません。
    それでいて、欧州最大の歓楽街であるザンクト・パウリのレパーバーンのような綺羅びやかさがなく、落ち着いている印象の街です。

     

    もともとアルトナは、エルベ川の小さな漁村だったようです。
    ビールも醸造していて、漁師たちだけでなく、まだ手工業だった時代の労働者たちが集まるようになったといいます。
    神聖ローマ帝国の中にあって、デンマーク領という特殊な環境になりながらも、独自の文化を築き、19世紀にはコペンハーゲンに次ぐデンマークの第二の都市にまで発展しました。
    地理的にはハンブルクにあまりに近いため、「ハンブルクの美しい妹」と呼ばれることもあったといいます。

     

    ちなみに小惑星アルトナは、この都市にちなんで命名されました。
    それだけの地位にあった都市でしたが、現在はハンブルクの一部であり、また、ハンブルクの多様な顔を持つ構成要素にもなっています。あまり観光で積極的に行く場所ではないでしょうが、実は意外な魅力のある場所です。
    ビールだけでなく、ワイン酒場もありますので、もし北ドイツへ行く機会があれば、ハンブルクのもう一つの顔をぜひ見て頂きたいと思います。

  • イコン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイコンについて勝手に語ります。

     

     

    キリスト教では、パンはキリストの肉体で、ワインはキリストの血であると認識されています。このブログでも何度か取り上げています。
    その際にカトリックだけでなく、東方教会も一緒に紹介してきました。
    どうしても日本人にとっては、キリスト教というと、カトリックとプロテスタントに大別する風潮があるためで、本来の大分類である東方教会と西方教会をはっきりとさせたかったという目的もあります。
    そこで、今回は東方教会でお馴染みのイコン(Ikon)について少し触れたいと思います。

     

    イコンとはイエス・キリストだけでなく、聖人や天使などを描いたものです。聖書のシーンを描いたものも含まれます。
    偶像崇拝を否定する正教会(東方教会)には、キリスト像ではなく、このイコンがその代わりの役目を担うことがあるため、どうしても正教会のものというイメージがありますが、カトリックでもフレスコ画などはイコンに相当します。
    ちなみに、正教会のイメージが強くなるもう一つの要素として、イコンがギリシア語に由来するのも関係しているかもしれません。

     

    偶像崇拝を否定しながら、像の代わりに絵画を祈りの対象にしていたら、結局同じではないか、と、純粋に疑問に思っていましたが、厳密には、信仰の対象は、イコンそのものではなく、そこに描かれた対象だといいます。
    そのため、偶像の代用品でもなく、単なる教会の装飾品でもない、ということになります。
    この点を調べてみると、Wikipediaでは、分かりやすいことが書いてありました。紹介いたします。

     

    正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある。

     

    なるほど、確かにわかりやすいです。
    そしてイコンといえば、自印聖像を外せません。
    これは聖なる伝説がもとで、歴史的事実とは関係なく、この伝説の影響力と伝達力が大きな意味を持っているといえるでしょう。

     

     

    シリアのアウガリ王が癩病を患い、イエスが病の癒しの奇蹟をおこすことを聞き、イエスへ使者を送りました。
    その死者がアナニヤでした。彼は画家でもあり、王からはイエスの肖像画も描くように命じられていました。
    アナニヤは、イエスのいる場所に行きました。しかし、イエスは多くの群衆に囲まれていて、すぐに近づけません。しかも、群衆の中にいるイエスは、その顔が光り輝いていました。そのため、肖像画も描くことができませんでした。
    ところが、イエスはアナニヤに気づき、近くに招きました。
    アナニヤはアウガリ王の手紙を手渡しました。
    その手紙の内容は、ユダヤ人がイエスを迫害する計画が進行しているが、アウガリ王のもとでは安全なので、是非、来ていただきたい、さらに、自分の病を癒して欲しいという内容でした。かなり丁寧で、懇請するものでした。

     

    イエスは顔を洗いました。
    次に自らの顔を布に押し当てます。
    すると、なんと、その布にイエスの顔が写ったのです。
    まさに奇跡でした。

     

    この布こそが自印聖像のイコンです。
    イエスはこのイコンと手紙をアナニヤに渡しました。
    イエスの手紙には、アウガリ王の信仰について称えつつも、王の国に行くことは断っていました。それは、イエスは自身の今後の受難を予言していたことを理由としていからでした。
    アナニヤは、王のもとに帰り、イコンと手紙を渡しました。
    アウガリ王はたいそう喜びました。しかも癩病はみるみるうちによくなり、病気回復したのです。
    その後、イエス・キリストの受難を経て、昇天となり、アウガリ王は正式に洗礼を受けました。これにより、アウガリ王はキリスト教に改宗した歴史上最初の王となったといわれています。さらに、城壁には、自印聖像を掲げたといいます。
    ちなみにこの自印聖像は、第4回十字軍の時代に失われてしまったといいます。それ以降は、本物の自印聖像の行方は、謎に包まれ、各地で各種の伝承や伝説となっています。

     

    ワインにはイコンが似合います。
    ぜひともイコンについても知ってほしいと思っています。

     

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