今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヴィースの巡礼教会

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴィースの巡礼教会について勝手に語ります。

     

     

    ヴィースの巡礼教会(Wieskirche)は、日本人に人気のドイツ・ロマンテック街道終点のフュッセンの近くにあります。
    しかし、街道から外れていることもあるのか、意外と知名度は低いようです。

     

    ヨーロッパでは数えくれないくらいの教会を訪れていますが、このヴィース教会は格別です。見た目は質素で、ロケーションもかなりのどかな牧草地ということもあって、知らなければ田舎の少し大きな教会でしかありません。
    なにがそこまで魅了させるのかといえば、ロココ装飾の素晴らしさです。
    ユネスコ世界遺産に登録されています。

     

    この教会は「奇跡」の伝説から始まります。
    1738年のことです。
    シュタインガーデン修道院の修道士が彫った「鞭打たれるキリスト」の木像を農家の夫人が譲り受けました。
    その木造が6月14日に涙を流したというのです。
    この噂は広まり、「ヴィースの涙の奇跡」と呼ばれるようになりました。
    そのため、木像を所有する農家に、多くの巡礼者が集まるようになったのです。

     

    そして1740年、キリストの木像は牧草地の小さな礼拝堂に移しました。
    巡礼者はますます増加し、シュタインガーデン修道院により一般からの浄財を募ることで、小さな礼拝堂を教会とする建設資金捻出へと動きました。
    1757年に完成し、ヴィースの巡礼教会となりました。

     

    設計はドミニクス・ツィンマーマンによりました。
    彼こそがドイツ・ロココの完成者として知られる人物だったのです。
    ちなみに、世界的に見てロココ様式の代表作品としては、他にベルサイユ宮殿の小トリアノン、マイセンやセーブルの磁器、チッペンデールの家具などがあります。

     

     

    ヴィース教会の「ヴィース」は「草原の中」という意味で、フュッセンとオーバーアマガウを結ぶ場所にあります。
    そのため交通の便は極めて悪く、公共交通機関は一日数本程度のバスだけしかありませんでした。おそらく今でも変わっていないではないかと想像します。
    しかし、クルマでは容易に行くことができます。
    教会の関係では、オーバーアマガウとセットで行くと素晴らしいルートになります。

     

    キリスト受難劇にワイン オーバーアマガウ

     

    ワイングラス片手に、今宵はロココ様式を思い出しましょう。

     

  • メフィストフェレスとワイン酒場

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はゲーテとライプツィヒの酒場について勝手に語ります。

     

     

    ゲーテといえば「ファウスト」が最も有名な作品といえるでしょう。
    正式な名は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)で、生まれた場所はフランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main) ですが、「ファウスト」を執筆する契機となったのはライプツィヒ(Leipzig)です。

     

    そのライプツィヒは旧東ドイツで、ベルリンに次ぐ第2の規模を誇る都市で、現在の人口は約58万人です。
    ザクセン州にありますが、州都のドレスデンより都市の規模はわずかに上回っています。
    ライプツィヒを代表する駅はライプツィヒ中央駅(Leipzig Hauptbahnhof)ですが、櫛形ホームのこの駅こそが床面積83,460平方メートルで、ヨーロッパ最大の面積を有しています。
    まだ東西分裂時代にクルマでこの都市を訪れたため、残念ながら中央駅には立ち寄れませんでした。もし機会があれば、この巨大な駅をぜひ見てみたいと思っています。

     

    さて、ゲーテです。
    ライプツィヒの旧市庁舎の裏側に行くと、ナッシュマルクトという広場があります。
    その先にはにバロック様式の瀟洒な姿をした旧証券取引所がありますが、広場の中央にはゲーテの銅像があります。よく見る晩年の姿ではなく、若々しい大学生時代の銅像です。
    それもそのはずで、ゲーテがライプツィヒ大学に学んでいたことから、この銅像がたてられたのでしょう。
    さらにいうと、実は彼の父も同じ大学の卒業生でした。そのため、父の意向に沿って同じ大学に通ったといわれています。

     

    ゲーテのライプツィヒ時代は、厳格な父から離れた反動もあったのか、かなりの放蕩生活だったようです。
    その生活の中に、よく通っていたワイン酒場がありました。
    アウアーバッハス・ケラー(Auerbachs Keller)という店です。

     

    この店は、ゲーテの銅像があるナッシュマルクトの向かいにあるメードラー・パサージュ地下にあります。
    1912年に500人収容な大地下室レストランが設けられたことで、現在では多くの観光客も訪れる店になっていますが、ゲーテの時代には、ここまでの規模ではなかったようです。
    ゲーテはアウアーバッハス・ケラーで古い伝説を聞きます。

     

    「ファウスト博士が悪魔の力を借り、大きなワイン樽にまたがってこの酒場から表の通りへ飛んで行った」

     

    この伝説は、1525年にファウスト博士がこの地下酒場から悪魔の力を借りて、表の通りに出ていったというもので、その際に大きなワイン樽に跨っていたという内容です。
    この伝説をもとにして、ゲーテは、後の代表作「ファウスト」の悲劇第一部にこの酒場を登場させたのです。
    もちろん、その悪魔こそメフィストフェレスです。

     

    このワイン酒場でゲオルク・ファウストが悪魔のメフィストフェレスを呼び出したというわけですが、現在の店内では階段脇にファウスト博士とメフィストフェレスの銅像もあります。
    巨大な地下レストラン(Grosser Keller)でもあり、歴史的価値のあるワイン酒場(Historischer Fasskeller)でもあり、ぜひともここには死ぬまでに一度は訪れたい店です。本当に、クルマで来て、半日しか滞在できなかった過去の記憶が悔やまれます。

     

     

    Auerbachs Keller
    Grimmaische Strasse2-4 04109 Leipzig
    TEL:+49 (0)341 – 21610-0
    Grosser Keller 11:30~24:00(毎日)
    Historischer Fasskeller 18:00~24:00(月曜~土曜日)

  • ワイン留学とトロワ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランスのトロワについて勝手に語ります。

     

     

    フランスのトロワ(Troyes)は、北部にあるグラン・テスト地域圏のコミューンです。 、パリの南東約150キロに位置します。
    現在の人口はわずかに6万人程度ですが、この都市は日本のワイン生産では重要な役割を担った場所です。

     

    明治初期、日本のワインのパイオニアである高野正誠と土屋龍憲がワイン醸造を学ぶために留学したのがトロワだったのです。
    トロワはボルドーでもブルゴーニュでもなく、シャンパーニュ地方の南端です。
    なぜトロワだったかというと、二人の留学の世話を請け負った前田正名が、当時外務省の二等書記官でしたが、トロワにパイプがあり、留学の受け入れ体制が整っていたからでした。
    ちなみにこの前田正名ですが、のちに山梨県知事になっています。

     

    トロワの歴史は古く、ローマ皇帝ハドリアヌスがトロワに滞在したことがあるとされています。
    その後、メロヴィング朝フランク王国の初代国王だったクローヴィス1世によりトロワ周辺が征服され、シャンパーニュと名づけられました。
    720年にはアラブ軍による征服があったり、889年にヴァイキングにより町が荒廃させられたりしました。
    しかし、1102年に初めてシャンパーニュ伯と自称し、ナバラ女王とフィリップ4世の結婚により、シャンパニュは王家との結びつきに成功し、中世では繁栄を誇る地域になりました。

     

    実はこのトロワには、ユダヤ人排斥の歴史もあります。
    ナチスのユダヤ人迫害よりはるかに前の時代です。
    ときは1288年。トロワ住民によるユダヤ人への血の中傷(Blood libe)が起こったのです。これはユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致し、その生子どもたちの生き血を過越しのパン(マッツァー)という祝祭の儀式のために用いた、という事件です。
    しかしこれは事実関係はわからず、あくまでキリスト教側からの告発や非難です。
    この容疑者とされたユダヤ人たちは火あぶりによる処刑となりました。
    トロワに生まれた有名なラビとして、イサーク・ベン・ソロモンがいます。生誕年は1040年ですから、この頃からユダヤ教の住民が多かったとされています。
    それがこの悲劇的な事件につながったともいえます。

     

    ちなみにナチスは1940年、トロワのあるオーブ県の大半を占領し、トロワにも爆撃をしました。その結果、ナチスはトロワを制圧しましたが、このときに町に残っていたのは約4000人の住民だけだったといいます。
    トロワ開放は1944年で、その直前にナチスはトロワ南部のブシェールで、「ブシェールの惨劇」という63人の住民を処刑していました。

     

    激しい歴史を持つトロアですが、日本のワイン醸造を学んだ記念すべき都市という側面もあるのです。

     

  • グレゴリー・ブラックスランド

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はグレゴリー・ブラックスランドについて勝手に語ります。

     

     

    イタリア、フランス、スペイン、アメリカ、アルゼンチン、中国に次ぐ世界第7位のワイン生産量を誇るのがオーストラリアです。
    そのオーストラリアワインで、初めてボルドースタイルのワインを生産した農場経営者であり探検家でもある人物がグレゴリー・ブラックスランド(Gregory Blaxland)です。
    彼は1778年6月17日にイギリスのケント州フォードウィッチで生まれました。父親はその町の首長を務めた人物でした。

     

    1805年に、ブラックスランドは妻と3人の子どもを連れてオーストラリアに向かいました。新天地を求めての移住でした。
    一緒に行ったのは家族だけでなく使用人、労働監督者、さらには家畜の羊、養蜂用のミツバチ、穀物の種子なども含まれていました。
    シドニーに到着したのは1806年4月1日で、4,000エーカーの土地を購入し、シドニーの西方に位置するサウス・クリークで農場の経営を開始しました。
    畜産業と農業を行い、南アフリカのケープタウンのブドウの木をパラマッタ・ヴァレーに植え、ボルドースタイルのワインを生産したのでした。
    そして1822年、彼は醸造したワインを持って、イギリスへと戻りました。翌年のロンドンで書籍を出版したり、彼のワインがイギリス王立芸術協会によって銀賞が与えられたことで、オーストラリアとしては海外で初めて賞をとったワイン生産者にもなりました。

     

    1813年には、探検家としてヨーロッパ人によるグレートディヴァイディング山脈のブルー・マウンテンズ横断探検を行い、その共同指揮を執ったこともあります。
    グレートディバイディング山脈(Great Dividing Range)は、オーストラリアで最も重要な山脈といわれ、その規模としては世界で4番目に長い山脈です。
    全長は3,500キロメートル以上で、オーストラリア大陸の最高峰であるコジアスコ山 (2,228m)を含んでいます。

     

    1963年にはブラックスランドを含めた探検家のブルー・マウンテンズ横断探検の様子を描いた切手が発行されたこともありました。

     

  • アフロディーテのキスより甘いコマンダリア

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコマンダリアについて勝手に語ります。

     

     

    愛と美の女神アフロディーテのキスより甘いと形容された甘口のワインがコマンダリアです。
    地中海に浮かぶキプロス島のワインです。
    また、古代では、ローマのアントニウスは、クレオパトラにこのとろけるような甘いワインをプレゼントした際に、キプロス島までも一緒にプレゼントしたともいわれます。
    12世紀になってからは、イギリスのリチャード1世がキプロスで結婚披露宴を行いましたが、そのときにコマンダリアを客にふるまいました。コマンダリアについて「王のワイン、ワインの王」と褒め讃えたともいわれています。
    13世紀では、フランス王のフリップ2世が世界初のワインテイスティング大会を開催しましたが、その中にコマンダリアを選ばれていました。
    ドイツでは、ビスマルクが好んでいたといいます。

     

    それほどまでに甘美なワインは、キプロスの地元産ブドウであるジニステリ種やマブロ種などだけを使っています。
    発酵も自然発酵で、天日干しをして乾燥させてから行うもので、さらには発酵が終ってからも4年間の樽熟成が必要とされています。
    そこまで手間暇をかけたワインは、濃厚で、糖度はかなり高く、蜂蜜のような甘さにまでなります。アルコール度数は15度以上です。

     

    さらに、キプロスの甘口ワインは、女神アフロディーテやクレオパトラの逸話があるように、その歴史はとても古いのが特長といえます。
    キプロス島そのものの歴史も古く、先史時代から文明があったといわれています。
    ただ、トルコの南の東地中海上に位置することから、それぞれの時代で覇権を握った国々の支配を受けてきました。ペルシャ、ギリシア、ローマと続き、ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国に長く支配されました。
    中世には十字軍に占領されたり、テンプル騎士団や、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国、イギリスと、支配者は移っていきます。
    ちなみにオスマン帝国の侵略は、コマンダリア目当てだったともいわれるほどでした。
    20世紀になってから独立を果たしますが、トルコの占領もあり、南部がキプロス共和国でギリシャ系住民が支配する地域で、北部が北キプロス・トルコ共和国としてトルコ系住民が支配する地域となっています。

     

    甘美なワインは他の地域にもありますが、アフロディーテのキスより甘いといわれるのはコマンダリアだけです。いつか飲んでみたいワインです。

     

  • バタンバンBanan Grape Farm

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はバタンバンについて勝手に語ります。

     

     

    カンボジアの首都プノンペンから北西約300kmに位置するバタンバンには、意外なことにカンボジアの国産ワイナリーがあります。
    カンボジアとワインというだけでも結びつかず、バタンバンという都市名も聞いたことがないという人は多いことでしょう。
    しかし、バタンバンはプノンペンからタイへと続く地点にあり、人口規模でもカンボジアで2位、3位を争うほどです。街中はサンカー川が貫き、フランス植民地時代の建築が今でも残っていることから、欧州とアジアが融合した美しい街並みが広がっています。

     

    ワイナリーに行くには、バタンバン中心部からトゥクトゥクなどを利用すれば30分程度で着きます。
    観光名所の「ワット・バナン」の遺跡は、その先にあります。ただ、ワイナリー周辺は観光地ではないので、カンボジアらしいのどかな風景が広がっています。
    それもそのはずで、11世紀のクメール王国時代から国内有数の稲作地帯だったのです。
    クメール王朝は別名がアンコール王朝で、カンボジアのもととなった国で、チェンラ王国の流れをくむクメール人の王国でした。
    隣のタイで建国されたアユタヤ王朝との戦いに破れ、首都陥落によって王朝はなくなりました。

     

    さて、ワイナリーですが、「Banan Grape Farm」という名称です。
    歴史はそれほどあるわけではありません。ブドウ栽培の始まりは1999年だといいます。2004年からワイン生産を行うようになったといいます。それほど大きな規模ではありませんが、ブドウの収穫を年に3回も行うことができるそうで、それでワイン生産の量も確保しているようです。
    品種はシラーズ、カベルネ、ソーヴィニヨンなどで、当然ながらカンボジアには自生していませんでしたから、海外から持ってきたものです。日本からも輸入したそうです。

     

    バタンバン周辺には、カンボジアの歴史を語る上で外せない悲惨な場所もあります。
    キリング・ケーブです。
    ここはポルポト政権が支配していた街でした。
    ポルポト政権は知識人の抹殺を行なっていたことから、虐殺に使われた場所があります。その洞窟がキリング・ケーブなのです。

     

    そんなカンボジアの貴重なワインについては、まだまだ情報が少ないといえるでしょう。

     

  • カルトワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカルトワインについて勝手に語ります。

     

     

    カルト(cult)といえば、通俗用語として「カルト集団」とか「カルト教団」などのように、社会的に「悪」の集団として使われることが多いといえます。
    イメージ的に反社会的集団の代名詞になっていて、反社会的には犯罪やテロなどを繰り返す危ない団体となるでしょう。
    しかし、もともとは宗教用語で、「儀礼・祭祀」の意味を持つ言葉です。

     

    そんなイメージの良くない「カルト」ですが、「カルトワイン」となると、全く異なるものになります。
    厳密に定義されているかどうか分かりませんが、一般的には「カリフォルニア、特にナパヴァレーを主体に生産されている高品質な高級ワイン」のことになります。1990年頃より使われ始めました。
    実はこれには1976年の「パリスの審判」が関係しています。

     

    パリスの審判

     

    フランスワインとカリフォルニアワインの優劣を競った結果、カリフォルニアワインが、フランスワインの得点を上回ってしまったのですが、このときにフランスワインに勝利したワインこそが「カルトワイン」だったのです。
    今ではカリフォルニアにも5大カルトワインがあり、フランスワインに劣らず人気があるとも聞きます。

     

  • ミルク・ワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミルク・ワインについて勝手に語ります。

     

    ワインとミルクを使った飲料というと、カクテルの「ピーチ・レディ(Peach Lady)」があります。
    創作したのは日本人で、帝国ホテルの佐藤謙一氏で、1988年にメルシャン・カクテル・コンペティションで最優秀賞に輝きました。
    しかし、ミルク・ワインと呼ばれるロシアの飲料は馬乳酒です。

     

    馬乳酒というと、本場はモンゴルで、シルクロードの商人たちの主な飲み物だったことでも知られます。

     

    モンゴルの「赤と白」

     

    ロシアのミルク・ワインは、アストラハン州でよく見かけることができます。
    あまり馴染みのない地域といえますが、周囲も東にカザフスタン、西にカルムイク共和国、北にヴォルゴグラード州で、こちらもあまり馴染みがないといるでしょう。
    ただ、カスピ海は聞いたことがあるでしょう。その北部にあるエリアで、プリカスピスカヤ低地に位置していることで、標高は海抜より低いのが特徴です。
    カスピ海にはヴォルガ川が注いでいますが、その河口付近が三角州になっていて、「ヴォルガ・デルタ」と呼ばれています。

     

    州都のアストラハンは、そのデルタ地帯にあり、市街地は11の島に分かれています。
    世界的に有名なものはキャビアで、カスピ海産のチョウザメからキャビアの加工をしている都市です。

    モンゴルと同じようにミルク・ワイン(馬乳酒)があることでも想像できるように、ハザール、つまり遊牧民族の国でした。

    ハザールはまだまだ謎に包まれた部分を多く持つ国でしたが、アストラハンの南南西40kmにあるサモスデルカはハザールの都だったイティルだと推定されています。
    また、北120kmにあるセリトリャンノイェの周辺が首都サライだったことは歴史的に認識されています。

     

    遊牧民の国と欧州の文化が混在し、馬乳酒がミルク・ワインになったというのは、実に興味深いといえます。

     

  • ホーエンツォレルン城

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はホーエンツォレルン城(Burg Hohenzollern)について勝手に語ります。

     

    フリューリングスフェスト(Stuttgarter Frühlingsfest)で有名なシュトットガルトからクルマで約1時間程度の山の頂きにホーエンツォレルン城があります。
    今では日本人観光客が訪れることも珍しくないかもしれませんが、30年前は城内ガイドも英語対応せず、ドイツと近郊の人たちが中心に訪れる城でした。

     

    ドイツの城で最も有名なのはノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)でしょうが、個人的にはこちらのホーエンツォレルン城のほうが好きです。
    現在の城は3代目で、最初の城の建設時期は分かっていません。
    破壊されたのは1423年で、シュヴァーベン帝国自由都市の部隊によります。
    2代目は1454年に再建が開始され、神聖ローマ帝国のハプスブルク家やフランス軍の占領などを経たのちに廃墟となります。
    現在の3代目はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世によります。この建設時期がノイシュヴァンシュタイン城の建設と同じような時期になります。

     

    城の中には聖ミカエル礼拝堂があり、山頂の城壁に囲まれた中庭というロケーションもあり、不思議な荘厳さがあります。
    城の所有者だったホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家はカトリックで、三十年戦争の悲惨さを経験してもプロテスタントに改宗することはありませんでした。
    しかし、1869年に断絶しています。ときはドイツ帝国成立直前でした。

     

    2代目の城の時代に三十年戦争は起こり、この戦争によって神聖ローマ帝国の骨格内だけでは収まらないほどの広がりを見せ、同時に西ヨーロッパの動向に大きな影響を与えました。
    その結果、神聖ローマ帝国は弱体化し、フランスが大きな地位を築くことに繋がりました。さらにヴェストファーレン条約により、新たな国際法が確立されることにも繋がりました。

     

    この城は現在でも不便な場所に位置していますが、観光客が団体でバスで乗り付けるようにもなりました。
    シュトットガルトでワインを楽しみ、少し足を伸ばしてホーエンツォレルン城を見学するというのも良いのかもしれません。

     

  • 通化葡萄酒

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は通化葡萄酒について勝手に語ります。

     

    中華人民共和国吉林省西南部に位置する通化市は、かつての満州国の首都でした。
    と、いっても、通化市が首都だった期間は1945年8月9日から18日までという短い時期だけです。
    この通化市産の山ブドウを原料にしたワインが通化葡萄酒です。

     

    きれいな紫紅色をしている甘口のワインです。
    甘みとともに適度の酸味があり、渋味もかすかですがあります。そのため全体的な印象としてはさわやかな感じになります。
    酒精度は、酒精度15度で糖分15%のものと、酒精度12度で糖分15%の二種類あります。
    このワインを製造している場所は吉林省と遼寧省を流れる鴨緑江水系の河川である渾江東岸にあります。この地域は長白山の南麓になりますが、この長白山こそ、朝鮮民族の信仰の山である白頭山です。現在は北朝鮮と中国の国境の山になっていて、標高2,744mの火山です。
    韓国でも北朝鮮でも、『三国遺事』が引用している「朝鮮古記」から、朝鮮という国家創生の神話になっています。
    それによると、朝鮮国は、この白頭山に誕生し、その後に平壌に遷都したとしています。そのため白頭山は「朝鮮民族の揺り籠」であるとしているのです。

     

    あくまで神話の世界の話で、実際は、『三国遺事』に記載される山は白頭山ではなく太伯山で、この太伯山を白頭山の古い呼称としているのだと思われます。一説では、20世紀になってから朝鮮民族の聖地となったともいわれています。
    聖地化された根拠として、詩人でありジャーナリストであり、歴史家であった崔南善により、白頭山にかつて存在したといわれる茀咸文明こそが朝鮮文明の根源であるという学説を作り出したことによります。そのとき著した著作が「白頭山覲讃記」で、自ら登山した記録でもありました。
    ちなみにこの崔南善ですが、朝鮮民族の誇りを強調し、歴史認識もかなり独特なものでした。
    日本に関連する部分でも「百済も高句麗も新羅も日本に多くの植民地があった」としていて、領土問題では日本の竹島についても、韓国の政治家・兪鎮午に「独島」が韓国領であることを確信させた人物ともいわれています。

     

    さて、通化葡萄酒ですが、製造は通化葡萄酒廠で、創業は1937年です。
    しかし、創業当初は品質が悪く、決して褒められたワインではなかったといいます。生産量も少なかったようです。
    しかし、国営になり、劇的に生産量が増加し、品質も向上したようです。
    原料の山ブドウも、品質改良を行い、農業技術も進歩し、山ブドウ園を増やしていきました。その結果、1955年から輸出されるようにもなりました。

     

    また、通化というと、通化事件を思い浮かべる人もいるかもしれません。
    悲惨な事件であり、当時の時代背景が大きく関係したものでした。
    それは1946年2月3日のことでした。
    このとき、通化市は満州国通化省でしたが、中国共産党に占領されていました。中華民国政府が要請し、それに呼応した日本人が蜂起したのです。
    鎮圧される結果となりましたが、その後も中国共産党軍や朝鮮人民義勇軍南満支隊は日本人を虐殺していきました。一部の朝鮮人も虐殺されたようです。
    このとき、日本人が虐殺された人数は約3000人といわれ、その多くは武装蜂起とは関係のない一般の老若男女だったといいます。
    実はその前年にもアジア系のソビエト兵の乱射事件があったりしていました。このときの犠牲者も20代の女性教師で、理不尽な事件でした。
    日本人が中国人を虐殺したとされる南京事件は、別名で「南京大虐殺」ともいわれますが、通化事件では殺す側と殺される側が正反対だった事件です。南京事件と比べて、あまり語られていない歴史の一コマです。

     

    かなり話のそれたことになりましたが、日本人としては悲しい歴史に彩られた地で誕生した通化葡萄酒、満州と絡めて飲むのはいかがでしょうか?

     

1 2

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ