今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • エストニア

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエストニアについて勝手に語ります。

     

     

    北欧は税金が高いため、比較的安価に購入できる近隣の国々へ買い物に行くことがあります。
    特にアルコール類は、わざわざ買いに行っても、十分にお得だったりする場合があります。
    例えばフィンランドですが、西側の隣国は同じ北欧のスウェーデンやノルウェーなので、同じように税金・物価が高いですが、東側のロシアやその南のバルト三国などは比較的行きやすい場所であり、物価も北欧よりはるかに安くなります。
    ただこの地域はワインベルトの北限よりさらに北側に位置しますから、地元産の良質ワインを求めるのはできません。
    結局、バルト三国のワインとなると、フランスやスペインから輸入されたもので、高級品の扱いであり、このアルコール度数では酒税も少し高めです。ビールなら十分に買いに来るメリットはあるようです。

     

    そんなバルト三国のひとつ・エストニアについて少し言及しましょう。
    バルト・フィン諸語のエストニア語を話すエストニア人は、フィン人と同系統でありますが、同一民族による独立国家となると、1917年の2月革命後でした。
    中世の時代にはドイツ人に支配されていました。
    当時はキリスト教の地域ではなかったため、布教を目的として十字軍が派遣されました。 その中でて1202年に設立されたリヴォニア帯剣騎士団は武力による改宗を行いました。その結果、リヴォニアを制圧し、北部へも進出しましたが、これはロシア諸侯により失敗してしまいました。
    ただ、改宗が進んだことでドイツ人の入植者が増加し、ハンザ同盟加盟などによる都市化とともに、ドイツ人支配となったのでした。

     

    次はスウェーデン支配時代となり、さらにロシア統治となり、支配者が変わっていきます。
    ロシア革命以降はソ連軍の占領があり、ゴルバチョフのペレストロイカ政策から独立へと進んでいきました。
    実は19世紀には、エストニア民族の目覚め (Estonian national awakening)による民族意識は広がっていたのですが、周辺国との関係で時代の渦に飲まれ、悲願の独立までは時間を要してしまいました。
    移民していったエストニア人も多く、その最大の地域はカナダでした。現在、約2万4,000人が居住しているといわれます。

     

    日本とは全く事情が異なるとはいえ、時代に翻弄されたエストニアを思うと、気軽にワインが購入できる日本は、幾多の戦争を経たとはいえ、まだ恵まれているといえるのかもしれません。

     

  • スコルピオン1世

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスコルピオン1世について勝手に語ります。

     

     

    紀元前約3150年に、すでにワインが飲まれていた証拠がスコルピオン1世の墓にあります。
    この墓の調査により、ワインの残渣を含めた陶器の壺が数十個も発見されていて、さらにはブドウの種子や皮、それに乾燥した果肉まで発見されているのです。

     

    スコルピオン1世(Scorpion I)は、上エジプト最初のファラオで、王朝誕生以前の時代になります。
    上エジプトは、現在でいえばカイロ南部からアスワンあたりまでの地域になります。
    カイロ以北の下エジプトと並ぶ古代エジプトの二大地域でした。
    スコルピオン1世の墓は、アビドスにある王家の墓の一つであるとされていますが、墓は古代にすでに盗掘されていました。
    しかし、それでも墓の中に穴が開けられていて、それは何かに結ぶためのものだったようです。象形文字が描かれた小さな象牙の飾り板も多数発見されました。
    その中でブバスティスとブトの街を表していると考えられるものがあり、スコルピオン1世の軍がナイル川デルタに侵攻したことを示していると考えられています。
    このことことら、遠征記録を残すために象形文字が確立されたのではないかという説もあります。

     

    ちなみにですが、墓にあった象形文字であらわされたブバスティスですが、現在の都市ではザガジグの郊外に位あり、廃墟となっています。
    実は「聖書」に登場するピ・ベセト(エゼキエル書30章17節)であるとされ、古代ギリシア人はアルテミスに比定していました。下エジプトのデルタ地域で、ナイル川沿いです。
    また、ネコ科の女神バスト崇拝の拠点になっていて、ネコのミイラが多く保管されている場所だったようです。

     

    古代エジプトの歴史はロマンがあるかもしれませんが、長い時間の栄華の間には、他の宗教との関係性もあり、実は複雑な部分もあります。
    そんな中でワインがはるか昔に飲まれていた痕跡があるだけで、少しうれしくなります。

     

  • バゼレハゴランワイナリー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はゴラン高原について勝手に語ります。

     

     

    中東の火種になっているゴラン高原は、トランプ大統領によって「イスラエル主権」という言葉が飛び出したことで、、より緊張がました地域といえます。
    このゴラン高原はイスラエル、レバノン、ヨルダン、シリアの各国境が接する高原で、第三次中東戦争ではイスラエルが占領し、第四次ではシリアが奪還を試みた場所です。
    イスラエル軍の占領は1967年から1981年まで続き、ゴラン高原法に基づいて軍部から民政の支配と変化しました。
    しかし、イスラエルを除くと、国連も含めてこれを認めていません。国連安全保障理事会の決議497では「イスラエルの併合は国際法に対して無効である」となっています。

     

    それだけ不安定な地域であり、シリアとイスラエルは現在でもゴラン高原の領有権を争っている状態ですが、第四次中東戦争停戦後は大規模な武力対決はありません。
    そんな状態でのトランプ大統領の発言ですから、次の紛争を危惧してもおかしくないでしょう。

     

    そのゴラン高原には、バゼレハゴランワイナリーがあります。
    毎年約7万本のカベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、シャルドネのワインを生産しているワイナリーで、ユダヤ教のコーシャの条件を充たしています。
    ただし、これをイスラエルのワインといえるかどうかは別問題で、ゴラン高原はどこに帰属するのかという問題と関係します。

     

    ユダヤの人々がこの地へ入植したのは1970年代からですが、それ以前からは多くのドルーズ派やチェルケス人の集落が存在し、今でも残っています。
    またガリラヤ湖にも近く、この周辺は古代以来、交通の要衝でもあったことからエジプトとヨーロッパを結んでいたマリス街道もありました。
    「聖書」の「福音書」では、使徒ペトロがガリラヤ湖の漁師だったという記述もあり、ゴラン高原ともども現在の政治状況とあわせて複雑な場所といえます。

     

    トランプ大統領の発言はともかく、日本ではこの地域のイスラエルの主権を認めていない立場を続けています。
    そのため、 バゼレハゴランワイナリーについては、イスラエル産と表現するのは間違いになります。もちろん味については全く関係のない話です。

     

  • KirとKiel

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカクテルとドイツの都市について勝手に語ります。

     

     

    白ワインに少量の黒スグリのリキュールを加えたカクテルといえば、キール (Kir) です。
    このカクテルは、フランス、ブルゴーニュ地方のディジョン市長だったフェリックス・キール(Felix Kir)によって考案されたと伝えられています。そのため、カクテルの名称にもなっています。
    それは第二次世界大戦が終了したときといわれますが、一説にはそれ以前からすでに考案されていたとも言われています。
    そしてこのカクテル誕生にはブルゴーニュ地方の中心的な都市であるディジョンという理由と、当時のワイン販売の苦境が関係していました。
    フェリックス・キールは白ワインをベースのカクテルを普及させることで、ブルゴーニュのワイン販売も拡大させることを目的としたようです。

     

    ただ、個人的にはドイツに縁があるせいか、日本語で「キール」と表記すると、ドイツの都市を思い浮かべてしまいます。
    バルト海に面したドイツ北部の都市であるキール(Kiel)です。
    あまり北ドイツは日本人観光客も多くないので、知名度は低いかもしれませんが、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都であり、かつてのホルシュタイン公国です。
    ハンブルクでは必ず愛飲していたのもホルシュタインというビールでした。
    また、このブログではシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の都市としてリューベックも紹介しました。

     

    ハンザの女王

     

    キールには運河があり、とても重要なものです。
    バルト海の港町であるキールと北海に注ぐエルベ河口を結んでいることから、ヨーロッパを大包する重要輸送ルートになっているのです。
    ハンブルクから約90km、リューベックから約60kmの距離で、列車でもアウトバーンでも行きやすいといえます。
    カクテルとは全く関係ないでしょうが、やはり自分にとっては「キール」といえばこの都市です。

     

  • ラヨシュ2世の私生児ヤーノシュ・ウォス

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスロバキアについて勝手に語ります。

     

     

    スロバキア共和国(Slovenská republika)は、あまり日本人には馴染みがないかもしれませんが、首都のブラチスラヴァ(Bratislava・旧称:Preßburg)は、実はウィーンから近い距離にあり、ウィーンと同じようにドナウ川沿岸都市です。
    さらに国境という点では、オーストリアだけでなくハンガリーとも接していて、チェコとも近い位置関係にあります。
    このスロバキアにはワインというイメージはないかもしれませんが、実はハンガリーワインやフランスワインとの関係性が強くあります。

     

    歴史をひも解くと、ハンガリー王国に支配されていた時代には、当然ながらハンガリーワインの影響を受けていました。
    品質も同等の扱いであり、生産面でも統合されていました。
    その一方で、フランスとは経済的な関係がありました。
    それがヤーノシュ・ウォスがモハーチの戦い以降にワイン生産のためにブドウ園を継承したことに始まります。
    このヤーノシュ・ウォスはハンガリー王とボヘミア王だったラヨシュ2世の私生児です。彼の家族の一部はのちにフランスに移住し、ワインの地域経済に参加したことで、フランスとの関係性もできたのです。

     

    では、ラヨシュ2世が戦死したモハーチの戦いと何か?
    世界史でも西欧の歴史を重視する教科書では、東欧のこの戦争はあまり馴染まないでしょうが、これはオスマン帝国との戦いです。戦場となったのがハンガリーのモハーチ平原だったため、このように呼ばれます。
    もともとはアナトリアの小さな国だったものの、イスラム王朝として巨大化し、東ローマ帝国から東欧諸国、西アジア、北アフリカまでを征服していきました。まさに破竹の勢いで、新たな地中海世界の覇者となっていました。
    モハーチの戦いは、スレイマン1世の時代で、ベオグラードからヨーロッパへの進出を進めました。

    1526年にハンガリーへの進軍が開始され、このときのハンガリー側はラヨシュ2世ですが、若干20歳という若さでした。

    このときに姻戚関係のあるハプスブルク家やボヘミアからも援軍が派遣されることとなりました。

     

    若いラヨシュ2世は、しかし、致命的なミスをしてしまいます。

    オスマン帝国軍がモハーチに到着すると、まだ援軍が到着していない段階で、ハンガリー軍は攻撃を開始してしまったのです。組織的な戦術を得意として地中海世界に君臨するオスマン帝国からすれば、ハンガリー軍の騎士など敵ではありませんでした。
    ハンガリー軍は壊滅し、ラヨシュ2世も戦死しました。

     

    この戦争により、ハンガリーは分割されることになり、オスマン帝国はハンガリー中央部を以降の150年間もの間、支配することになったのです。

    まさにラヨシュ2世の未熟な戦いによって、この地域の歴史は大きく変わりました。

    それでも私生児だったヤーノシュ・ウォスによって、ワインという面では発展したともいえます。

     

  • 台湾の樹生休閒酒莊

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    また台湾で大きな地震がありました。
    今回はそんな台湾のワイン、樹生休閒酒莊について勝手に語ります。

     

     

    日本のすぐ隣りにあり、ワインのイメージがほとんどない国に台湾があります。
    それもそのはずで、台湾のワイン生産は歴史が浅く、約60年前からと新しいのです。
    それでもドイツの国際コンクール「Mundus Vini」で金賞に選ばれたワインが台湾にはあります。

     

    中国語でワインは、日本語でも意味がよく分かる「葡萄酒」です。しかし台湾では「埔桃酒」 も使われるそうです。
    では、どのようにして台湾でワインがつくられるようになったかというと、時代は1953年にさかのぼります。
    当時、日本人が交配したブドウのブラッククイーンが台湾に入り、さらに数年後にはアメリカからゴールデンマスカットが入ってきました。これらを試験栽培するようになったのが始まりです。
    そのような中で台湾で最初のワイナリーが「樹生休閒酒莊(樹生ワイナリー)」です。

     

    この樹生休閒酒莊ですが、試験栽培の段階からワイナリーとして設立されたわけではなく、実際の設立は1999年まで待たなければなりません。
    その年は、台湾大地震が発生した年です。今回の地震より規模が大きく、犠牲者も多く出ました。
    その震災からの復興に際して台中県と后里農協は農家の果実酒醸造による産業振興を打ち出しました。この流れで「樹生休閒酒莊」が設立されたのです。
    本格的なワイナリーとして、樹生休閒酒莊はブドウ栽培のノウハウを活かし、ワイン醸造の設備を整えるとともに、研究を重ねていきました。復興のために、各地のブドウ農家へ技術やノウハウも伝授していきました。

     

    ワインベルトから見れば南に位置しすぎている台湾で育ったブドウは、味のうえではとても飲めたものではないようなワインでした。
    しかし努力を怠らず、ついに2007年には「埔桃酒」という白ワインが、ワインコンクールで数々の賞を受賞することに成功しました。このワインはゴールデンマスカットが原料で、ドイツ的な甘口ワインに仕上がり、本場のドイツでも評価されたのです。
    隣国なので、比較的渡航しやすい台湾ですが、ワインという視点で見ても、魅力的になるかもしれません。

     

  • スウェーデンワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスウェーデンワインについて勝手に語ります。

     

     

    スウェーデンはワインベルトの北限よりさらに北に位置することから、ヨーロッパの「ヴィニフェラ種」(Vitis vinifera)が自生する環境にありません。そのため、ブドウ栽培からワイン生産ということは伝統的に行われていませんでした。
    それでもキリスト教圏にあるため、中世のカトリックの修道院には、ブドウ畑があったとする説もあります。
    しかし、残念ながら、証拠がなく、真偽の程は確かではないようです。

     

    そのようなスウェーデンでは、ブドウ栽培は温室で行うのが確実で、小規模ながら行われてきました。
    しかし、これをワインにしていたかというと、必ずしもそうではなく、ほとんどは食用や鑑賞目的でした。
    変化が訪れたのは、20世紀の終盤です。
    ワインベルトの北限を超えた地域でもワイン生産の実績が出てきたことです。具体的にはカナダやデンマーク、さらにはイギリスなどのワインが活発化し、北の地でも栽培できる交雑品種(hybrid grape)の新派生種が利用できるようになったことによります。
    さらにはワイン醸造の技術も発達してきたことによります。

     

    スウェーデンワインの商用化については、同じ北欧のデンマークに触発を受けた人の活躍によります。
    面白いのは、ブドウ栽培地です。
    常識的に考えれば、デンマークよりのスウェーデン南端にありそうですが、実は違います。
    セーデルマンランド県(Södermanlands län)のフレン近郊です。
    この県の県庁所在地はニーショーピング(Nyköping)市で、県の面積は6103平方キロメートルあります。
    県全体の人口は26万人程度で、実は居住面積は少ないのが特徴です。南東部ではバルト海、北部でメーラレン湖に接し、イェルマレン湖の東半分が含まれます。

     

    実際には商業ワインとしては、現在でもスウェーデンでは規模が小さく、Wikipediaで見ると「2006年にスウェーデン農業庁(Statens jordbruksverk)が数えたところ自己所有のブドウ畑から商用ベースのワインを生産しているスウェーデン企業は4社であった。総生産量は5,617 Lで、その内3,632 Lが赤ワイン、1,985 Lが白ワインで構成され、これらは約10 haのブドウ畑から生産されていた」とのことでした。

     

    馴染みのないスウェーデンワインですが、希少価値があるのは間違いなく、一度飲んでみたいと思っています。

     

  • エルミタージュ (Hermitage)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエルミタージュについて勝手に語ります。

     

     

    エルミタージュ(Hermitage)というと、どうしてもロシアのサンクトペテルブルクにある国立美術館を思い浮かべてしまいます。
    しかし、エルミタージュとは本来、フランス語で「隠れ家」を意味します。
    これが地名に使われているのは、フランス南東部オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ドローム県のコミューンにあり、クローズ=エルミタージュ(Crozes-Hermitage)といいます。
    この地域こそ、ローヌワインの発祥地であるタン=レルミタージュのすぐ北にあり、ローヌ地方のAOC認証のワインを生み出しているのです。

     

    AOCのブドウは、クローズ=エルミタージュだけでなく、タン=レルミタージュ (Tain-l’Hermitage)、ラルナージュの3つの自治体で生産されています。
    共通点は急斜面の畑が多いことです。
    タン=レルミタージュは、ローヌワインの生産・流通の中心地になっていて、世界最高級品質と言われるヴァローナ社もあります。

     

    ローヌワインは歴史も古く、フランスでは最古といわれ、紀元前600年頃にはブドウ栽培が行われていたともされています。
    しかし、現在では、ボルドーやブルゴーニュの圧倒的な知名度からはかけ離れてしまい、特に日本人にはあまり馴染みのないワインになっているかもしれません。
    しかも、ラングドック=ルシヨンやプロヴァンスのワインと一緒にして「南仏ワイン」と一括りにされたりもしています。

     

    ローヌワインのブドウ生産地域を全体で見ると、気候的には北と南では異なります。
    北は大陸性気候、南は海洋性気候になり、さらにいえば土壌も北が花崗岩質に対して、南は砂利の混じったものになります。
    北部で生産される赤ワインは極めて特徴があり、その中でシラー種による赤ワインは、チョコレートが焦げたような香りがすることで知られています。。白ワインはヴィオニエという品種の強い香り辛口が作られています。
    南部はブドウ品種が多彩になっていて、地区によって違うこともあります。

     

    このローヌワインの中のエルミタージュだけに絞ると、ブドウの栽培面積はかなり狭く、合計でも150ヘクタール程度しかありません。さらにいえば、輸出用ワインは少なく、地元での消費用がほとんどです。従って、エルミタージュのワインを堪能したかったら、直接行くしかないかもしれません。

     

  • フランケン大公領

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランケン地方について勝手に語ります。

     

     

    以前にもローテンブルクとあわせてフランケンワインについては記述させて頂きました(フランケンワインとローテンブルク)。
    この地域は、神聖ローマ帝国の部族大公だったフランケン大公の領地でした。
    創設は906年頃といわれ、カロリング朝が断絶した際に在地貴族のコンラート1世がフランケン地方を支配したことでした。
    さらにコンラート1世は911年には東フランク王にまでなり、大公位については弟のエーバーハルト3世に譲りました。
    しかし、フランケン大公は長続きしませんでした。
    コンラート1世が死去後、ザクセン大公のハインリヒ1世が王に選出され、エーバーハルト3世もハインリヒ1世に従いましたが、939年にはハインリヒ1世の息子のオットー1世が王位を継いだことに反旗を翻しました。
    しかし、この戦いは敗死という結果を招き、オットー1世はこれ以降フランケン大公を置かなくしたのです。

     

    フランケン大公の消滅により、東西の各フランケン大公も生まれましたが、どちらも消滅という流れになりました。
    ヴュルツブルク司教領、バンベルク司教領、アンスバッハ侯領、バイロイト侯領など、多くの領邦や自治都市の集まった地域として存続し、いわば連合した地域となりましたが、神聖ローマ帝国崩壊後は、バイエルン王国の一部となりました。
    そのため、現在のドイツの行政区画では、ドイツ連邦共和国バイエルン州の中の、ウンターフランケン県、ミッテルフランケン県、オーバーフランケン県の3県を合わせた地域となります。バイエルン州では北部一帯の地域に相当します。
    その位置的要素からロマンティック街道の沿線に関係しています。

     

    この地域の中心都市といえばヴュルツブルク(Würzburg)です。
    人口は13万人程度ですが、バイエルン州ではミュンヘン、ニュルンベルク、アウクスブルクに次ぐ規模です。
    ドイツの空の玄関口であるフランクフルト・アム・マインは北西約120kmの距離にあり、欧州高速鉄道のICEで1時間程度で行くことができます。
    1981年にはヴュルツブルクのレジデンツがユネスコ世界遺産に登録されました。また、ロマンティック街道の起点としての機能もあります。
    そして何よりフランケンワインの集積地です。

     

    この都市の歴史をひも解くと、実は興味深いことも多々ありますが、それについては次の機会にしましょう。

     

  • ステレンボッシュのワインランド

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はステレンボッシュについて勝手に語ります。

     

     

    アフリカというと砂漠のイメージがあったり、とにかく「暑い」イメージがあるかもしれません。
    しかし、アフリカ大陸は巨大で、その最南端となると、灼熱の国とは異なる地域があります。それが人種隔離政策のアパルトヘイトを行っていた南アフリカ共和国です。
    南半球に位置するので、夏は日本とは反対の1月~3月くらいになりますが、このときの平均最高気温は25~26度程度です。東京の夏のほうがよほど暑いといえます。
    また、南半球ということで、これを南米に目を移すと、チリやアルゼンチンと同じくらいの緯度である事もわかります。

     

    そんな南アフリカには、ワインランドとよばれる地域があります。
    中心都市はステレンボッシュ(Stellenbosch)で、近隣のパールやフランシュフックを含めた地域がそう呼ばれます。
    ワインランドといわれるだけあって、南アフリカ一のワイン産地です。
    ブドウ畑が広がり、のどかな田園地帯と点在するワイナリーは、まさにこの地域の独特の風景ともいえます。
    この地域の気候は地中海性で、ワイン産地に適しており、しかも土壌も粘土質のため、排水性に優れ、ブドウ栽培に適した丘陵が広がっています。
    また地元のステレンボッシュ大学にはワイン学科があり、ブドウ栽培や醸造の研究も行っています。

     

    ステレンボッシュはそれほど古い歴史はありません。
    都市として建設されたのは1679年だといいます。ケープ植民地総督のシモン・ファン・デル・ステルによるもので、そのため都市名のステレンボッシュは「ステルの森」という意味になっています。
    ケープタウンについで2番目のケープ植民地で、オランダ人の内陸部進出の拠点となったことから、急速に都市として発展していきました。
    また、1683年には学校が、1685年にはオランダ改革派教会が教区を設置したことで、文化的側面も豊かになっていきました。
    ユグノーたちもステレンボッシュに大量に入植してきました。
    ブドウ栽培は、その後に始まりました。それは、この地方の渓谷がヨーロッパによく似ていたこと、気候に恵まれ、肥沃な土壌であったことが幸いし、ユグノーたちによってブドウ栽培が開始されたのです。

     

    その後、ケープ植民地がイギリス領になりましたが、相変わらずオランダ人の入植者はあり、さらにドイツ人、フランス人の入植者たちも集まり、それぞれが融合した都市となっていきました。
    ただ、南アフリカですからアパルトヘイトの国で、奴隷の数は入植者より多いという状況でした。

     

    奴隷をベースにしてワイランドが築かれた部分はあるのかもしれませんが、恵まれた環境で良質なワインが生まれているのは事実なので、一度、この地域のワイナリーを訪れてみたいと思っています。

     

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