プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回はコムソモリスク・ナ・アムーレについて勝手に語ります。少し春が近づいてきたことで、ワイン片手に寒い街の話題を掲載する余裕が生まれました。
ロシア語で「Комсомо́льск-на-Аму́ре」、ラテン文字にすると「Komsomolsk-na-Amure」、中国語では「瓦伦」と表記されるコムソモリスク・ナ・アムーレは、シベリアにある工業都市です。
ソビエト連邦が崩壊しても都市名は変わらずで、この都市の名前は「アムールにあるコムソモールの町」をあらわし、コムソモールとは「共産党青年組織」の意味です。
またこの意味を踏まえて中国語では「共青城」ともいわれます。
都市名にあるようにアムールは大きな川で、この下流域は19世紀半ばまで満州の一部でした。
ロシア帝国の領土になったのは1858年のアイグン条約によるもので、それ以降に移住者によって村が出来上がり、その当時はペルムスコエという名でした。
都市として発展する契機となったのは、ソ連が1931年にアムール川沿岸への造船所建設を発表したことによります。1932年に造船所建設の場所に決定し、最初に建設労働者が大勢、この地へとやってきました。
アムール沿岸にある小さな寒村しかなく、周囲は原野だった地が、ソ連の政策により極東の中心となる工業都市へと進んでいったのです。
そして1945年までにはソ連極東唯一の製鉄所や製鋼所も建設されました。
この建設のための労働者には、ソ連共産党の青年組織コムソモールの人々や政治犯らも参加させたといいます。
第二次大戦以降には、コムソモリスク・ナ・アムーレは文字通りの工業都市に発展し、金属工業、機械工業、石油精製、造船業、航空機製造などで繁栄しました。
しかしソ連崩壊を迎え、極東唯一だった製鉄所も倒産し、街は変化の時期を迎えました。このときに外貨によって製鉄工場を再編することに成功し、シベリア随一の工業都市として復活に向かいつつあります。
それでも当初は極東一の工業化により、人口100万人規模の都市建設を計画していたものの、ピーク時で30数万人、現在は25万人程度の規模です。
その人口減少に至った理由のひとつに、鉄鋼会社の破綻も関係しています。
歴史の浅い都市で、しかも工業都市ということで、あまり観光に訪れる対象ではないかもしれませんが、周囲のシベリアの自然を満喫するには拠点として優れているかもしれません。
ヨーロッパからは遥々この地まで、ハンティングやフィッシングを目的でやっ来る観光客もいるようですが、日本人観光客は限られているでしょう。
個人的な体験でいうと、コムソモリスク・ナ・アムーレには行ったことがないものの、大学時代にこの街の出身者とは交流がありました。
ハバロフスクで知り合ったガーリャという大学生の同級生がこの都市の出身者で、当時はソ連時代でしたから、このいかにもという都市名を初めて聞き、興味を持った思い出があります。
ところがガーリャは覚えているのに、肝心なコムソモリスク・ナ・アムーレ出身の人の名は忘れています。歳のせいかもしれません。
今夜はワインを飲んで、少し思い出せるように寛いでみましょう。