今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • アムールの共青城

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコムソモリスク・ナ・アムーレについて勝手に語ります。少し春が近づいてきたことで、ワイン片手に寒い街の話題を掲載する余裕が生まれました。

     

     

    ロシア語で「Комсомо́льск-на-Аму́ре」、ラテン文字にすると「Komsomolsk-na-Amure」、中国語では「瓦伦」と表記されるコムソモリスク・ナ・アムーレは、シベリアにある工業都市です。
    ソビエト連邦が崩壊しても都市名は変わらずで、この都市の名前は「アムールにあるコムソモールの町」をあらわし、コムソモールとは「共産党青年組織」の意味です。
    またこの意味を踏まえて中国語では「共青城」ともいわれます。

     

    都市名にあるようにアムールは大きな川で、この下流域は19世紀半ばまで満州の一部でした。
    ロシア帝国の領土になったのは1858年のアイグン条約によるもので、それ以降に移住者によって村が出来上がり、その当時はペルムスコエという名でした。
    都市として発展する契機となったのは、ソ連が1931年にアムール川沿岸への造船所建設を発表したことによります。1932年に造船所建設の場所に決定し、最初に建設労働者が大勢、この地へとやってきました。
    アムール沿岸にある小さな寒村しかなく、周囲は原野だった地が、ソ連の政策により極東の中心となる工業都市へと進んでいったのです。

     

    そして1945年までにはソ連極東唯一の製鉄所や製鋼所も建設されました。
    この建設のための労働者には、ソ連共産党の青年組織コムソモールの人々や政治犯らも参加させたといいます。
    第二次大戦以降には、コムソモリスク・ナ・アムーレは文字通りの工業都市に発展し、金属工業、機械工業、石油精製、造船業、航空機製造などで繁栄しました。

     

    しかしソ連崩壊を迎え、極東唯一だった製鉄所も倒産し、街は変化の時期を迎えました。このときに外貨によって製鉄工場を再編することに成功し、シベリア随一の工業都市として復活に向かいつつあります。
    それでも当初は極東一の工業化により、人口100万人規模の都市建設を計画していたものの、ピーク時で30数万人、現在は25万人程度の規模です。
    その人口減少に至った理由のひとつに、鉄鋼会社の破綻も関係しています。

     

    歴史の浅い都市で、しかも工業都市ということで、あまり観光に訪れる対象ではないかもしれませんが、周囲のシベリアの自然を満喫するには拠点として優れているかもしれません。
    ヨーロッパからは遥々この地まで、ハンティングやフィッシングを目的でやっ来る観光客もいるようですが、日本人観光客は限られているでしょう。

     

    個人的な体験でいうと、コムソモリスク・ナ・アムーレには行ったことがないものの、大学時代にこの街の出身者とは交流がありました。
    ハバロフスクで知り合ったガーリャという大学生の同級生がこの都市の出身者で、当時はソ連時代でしたから、このいかにもという都市名を初めて聞き、興味を持った思い出があります。
    ところがガーリャは覚えているのに、肝心なコムソモリスク・ナ・アムーレ出身の人の名は忘れています。歳のせいかもしれません。
    今夜はワインを飲んで、少し思い出せるように寛いでみましょう。

     

  • カルタゴからチュニジアワインへ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチュニジアのワインとカルタゴについて勝手に語ります。

     

     

    アフリカのワインとしてモロッコを取り上げましたが、チュニジアも忘れてはいけません。
    チュニジアのワインと言えば、ロゼが中心ですが、実際にワイン生産量の約60~70%がロゼワインで占められています。ちなみに赤ワインは25~30%、白ワインは10%以下だそうです。
    ブドウ農園は約31,000haあり、半分以上がワイン生産用だそうです。
    そして何といっても歴史があります。

     

    その歴史はフェニキアやカルタゴに遡ることになります。
    フェニキアは、アフリカではなく地中海東岸に位置していました。現在のレバノンに相当する地域です。
    紀元前15世紀頃から都市国家となり、紀元前12世紀頃から地中海の海上交易によって繁栄しました。まさに地中海全域が交易の舞台で、その際にフェニキア人によってチェニジアにワイン生産が導入されたといわれています。それほどの歴史を誇っているのです。

     

    そしてカルタゴの誕生です。
    現在のチュニジアの首都であるチュニスに近い場所に建国しました。チュニス湖という湖の東岸に位置し、フェニキア人によって建設された古代都市国家といわれます。
    やはり地中海貿易で繁盛しました。
    しかし地中海の歴史で大きな戦争が起こりました。ポエニ戦争です。

     

    約1世紀にも渡る戦争でした。
    またこれは西地中海を舞台にしているものの、西ヨーロッパの命運を分けるほどの大きな戦争だったのです。
    この戦争で有名なのがカルタゴの将軍だったハンニバルです。
    戦争の相手はもちろんローマ帝国で、結局、カルタゴが壊滅することで終結したのでした。

     

    この戦争の結果、カルタゴはローマ帝国のアフリカ属州となりました。
    再びローマ帝国と戦い、独立を果たしたのはヴァンダル族によってでした。
    ヴァンダル族(Vandal)とは、あまり聞き慣れない民族でしょうが、古代にゲルマニアから北アフリカに移住した民族で、以前はゲルマン系部族といわれていましたが、現在はスラブかイリュリア系民族であったと考えられるようになりました。
    このヴァンダル族の王だったガイセリックによってカルタゴを占領し、ヴァンダル王国を建国しました。カルタゴはヴァンダル王国の首都になりました。
    このときのヴァンダル王国はかなりの勢いがあり、西ローマ帝国艦隊を拿捕したり、地中海のシチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを征服しました。
    さらにイタリアへも上陸し、一時期はローマを占領したほどでした。

     

    今度は東ローマ帝国がカルタゴ奪回に動き、553年についにカルタゴ入城に成功しました。
    このままローマ帝国の影響下で進むと思っていたのもつかの間、今度はウマイヤ朝の侵入があり、698年のカルタゴの戦いで東ローマは敗北し、ウマイヤ朝、つまりイスラムの支配下になったのでした。
    このときにカルタゴは荒廃したことで、カルタゴの衛星都市であったチェニェスの跡にチュニスが築かれ、ここが中心都市となっていきました。
    以降は、イスラム系の各王朝の支配があり、フランス領を経て、チュニジア共和国が成立したのでした。

     

    地中海の歴史は幅も広く、また深さもあります。
    そして何より、ワインは必ず関係します。
    もっと勉強が必要かもしれません。

     

  • フランシスコ会とカリフォルニア

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランシスコ会とカリフォルニアについて勝手に語ります。

     

     

    アメリカのカリフォルニア州は北緯42度から北緯32度に広がる地域です。
    この緯度をヨーロッパ方面に当てはめると、北端がスペイン、イタリア、南端が地中海を挟んだアフリカ側に相当します。つまり、欧州のワイン生産地と同じ緯度になるわけです。
    要するに欧州と同様の地中海性気候に相当する地域がアメリカで最もワイン生産が盛んとなります。
    数字で見ても、カリフォルニアには約4,500のブドウ農家があるそうで、ワイナリーの数も1,905もあるといいます。
    アメリカ全体のワイン生産量に占める割合は、カリフォルニア州単独で全米の84.9%にもなっているそうです。

     

    新世界ワインですから、ワイン生産はヨーロッパから渡ってきたもので、やはりキリスト教の宣教師が関係します。
    それがフランシスコ会でした。
    カトリック教会の修道会の中でもフランシスコ会といえば、その基本理念が際立っています。一部では「乞食僧団」などともいわれました。
    原始キリスト教のように、粗末な着衣で、しかも裸足で歩き、各地へ宣教していったのが特徴です。そのため、個人の所有権を放棄し、ローマ教皇に対しては従順で、聖書に登場する使徒のような生き方だったといいます。
    よく比較されるのがベネディクト派の修道会ですが、清貧と禁欲の生活、服従、清貧、童貞という戒律などは共通する部分が多々あったものの、その実行力についてはフランシスコ会が際立っていたようです。

     

    このフランシスコ会の創始者はアッシジのフランチェスコ(Franciscus Assisiensis)で、本名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Pietro di Bernardone)といます。
    裕福な家庭で生まれたといわれているフランチェスコですが、聖人として「貧しさ」を礼賛していました。しかもそれはあまりに徹底したもので、物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさ、さらには知的な豊かささえも認めなかったのです。ここまで「貧しさ」を徹底的に礼賛する歴史上の人物も珍しいといえます。
    同じ「貧しさ」を礼賛していたドミニコ会では、学問や理論の重要性を認めていましたから、この部分で決定的に異なっていたのです。
    このフランチェスコの主張は「心貧しいことこそ神の御心にかなう」という表現で語られていて、修道士が学ぶこと、研究すること等々を不要としています。

     

    そんなフランシスコ会のフニペロ・セラ神父が、1769年にカリフォルニアに最初のブドウ畑を築いたといわれています。
    実際には、1522年にスペインのエルナン・コルテスがヨーロッパブドウの苗木カリフォルニアに送らせたり、野生のブドウに接ぎ木してブドウ栽培が始まったりはしていました。
    そしてフランシスコ修道会の教会の聖礼典でカリフォルニアワインが使用されるようになりました。
    フランシスコ会のセラ神父は最初にサンディエゴでワイン生産を始め。ロサンゼルス郊外、サンフランシスコ近郊と、そのワイナリーを北へと広げていきました。

     

    その後はゴールドラッシュや禁酒法などの時代を経て、カリフォルニアワインは発展を遂げました。
    「貧しさ」を礼賛していた修道会で始まったという視点でカリフォルニアワインをとらえましたが、ある意味で自由の国・アメリカらしいワインのスタートだった気もします。

     

     

  • 日の没する地・モロッコのワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモロッコについて勝手に語ります。

     

     

    アフリカでイスラムの国でありながらワイナリーのある国がモロッコです。
    20世紀初頭のフランスの植民地だった時代にフランス人がワインを持ち込んだことが関係しますが、ブドウ栽培の面でも気候や風土に恵まれています。
    ブドウの品種はヨーロッパ系の品種が多く、代表的なものはカベルネ・ソーヴィニヨンやシラーなどで、いかにもフランスから伝わったことがよくわかります。

     

    首都はラバトですが、最大の都市はカサブランカで、ワインの産地もこの地方が中心になっています。アフリカといっても地中海気候のため、温暖な気候に恵まれ、良質なブドウ栽培が行われています。そのブドウからフルーティーで深みのあるワインが生産されています。

     

    モロッコはアラビア語の意味では、「マグリブの王国」になり、「マグリブ」は「日の没する地」「西方」の意味になります。
    カサブランカは映画でもお馴染みの都市ですが、首都ラバトの南西約90キロメートルに位置します。人口はモロッコ最大の415万人程度で、商業・金融そして観光地としてもモロッコの中心都市になります。
    歴史的には、やはり地中海貿易の関係する都市で、紀元前7世紀頃にはフェニキア人、紀元前5世紀頃にはローマ人との交易が盛んに行われていました。
    イスラムの国になるのは、1188年にムワッヒド朝の支配下になったことからですが、本格的にイスラム改宗へと動いたのは、14世紀のマリーン朝になってからです。
    その後、15世紀になると独立しましたが、この街の港を拠点とする海賊船がポルトガルやスペインを襲い、その仕返しに、街はポルトガル人によって焼失させられるということも起きました。
    カサブランカという名になったのは、1515年に街の再建が行われ、そのときに名付けられました。「白い家」という意味です。
    しかし、その後もアラウィー朝に統合されたり、フランスの植民地になったりし、最終的に第二次大戦後にフランスが撤退することで現在に至ります。

     

    ちなみにですが、ある一定の年齢層には、モロッコというと性転換手術をイメージする人もいます。
    そのイメージが強くなったのは、カルーセル麻紀がモロッコに渡って、この手術を受けていることが有名になったことが原因でしょう、そのため、一時期は「性転換手術」といえば「モロッコ」というイメージになったようです。
    イスラム圏の国なのに、なぜ性転換手術なのでしょうか?
    それは、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーの存在によります。彼こそが現在の「性別適合手術」に相当する技法を確立したのです。正式にはトランスウーマンのための陰茎陰嚢皮膚翻転法です。

     

    日本人には馴染みがあるようでないモロッコですが、ワインも良質なものが多く、観光地としても見どころが多いので、わざわざ行く価値のある国であるのは間違いありません。
    誰かと行きたいな!

     

  • ムルト=エ=モゼル

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はムルト=エ=モゼルについて勝手に語ります。

     

     

    フランス北東部にあるムルト=エ=モゼル県(Meurthe-et-Moselle)は、グラン・テスト地域圏の県で、奇妙な形をした県です。南北130kmですが、東西は長短があって、狭いところで7km、広いところで103kmと幅があり、ガチョウに似ているといわれています。
    Côtes de ToulがAOC(原産地名統制ワイン)に指定されたのは、このムルト=エ=モゼル県の県庁所在地ナンシーの西方にあります。
    トゥールの近くの8つの村で、年間4500hℓのワインが生産されています。
    ここでのワインは一般的にロレーヌワイン(Lorraine wine)と呼ばれ、、ムルト=エ=モゼルを含め、ドイツやルクセンブルクと国境を接するロレーヌ地方で生産されるワインになります。

     

    ただ県としては、経済の中心は鉱物資源採掘に依存してきました。
    繁栄していたのは1960年代までで、その後、鉄鋼産業不況により、基幹経済の転換に迫られました。
    特に深刻だったのは北部のブリエーで、失業率が高く、隣国のベルギーやルクセンブルクへと労働者が流出していきました。
    その一方で県南部では、そのような鉄鋼業不況と関係なく、農業地帯のまま維持しています。

     

    県名の由来となっているのは、ムルト川とモーゼル川という2つの河川です。
    ともにロレーヌの台地を流れる代表的な河川ですが、ムルト川(Meurthe)は、ライン川の準支流になります。ナンシー近郊のコミューン、ポンペでモーゼル川と合流します。
    この2つの河川により、平野部が形成されています。

     

    日本でロレーヌワインがそれほど一般的でないのは、AOCのワインの中でも市場性としては低く、輸出はほとんどされていないことが挙げられます。
    それどころか、フランスでも国内に多く流通しているわけではなく、専ら地元で消費されているからだといえます。

     

  • ピノ・ブランとヴァイスブルグンダー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はピノ・ブランとヴァイスブルグンダーについて勝手に語ります。

     

     

    白ワインのブドウ品種にピノ・ブラン (Pinot Blanc) があります。
    フランスではピノ・ブランですが、ドイツでは、ヴァイスブルグンダー (Weißburgunder) です。
    この品種は、ピノ・グリというピノ・ノワールの枝変わり種の変異種とされているもので、スパークリングワインに作られることが多い品種です。
    枝変わりに変異種というのは、そもそもピノ・ノワールが遺伝子的に不安定であることに由来します。そのため、ピノ・ノワールの変異種はかなり数が多いことになっています。

     

    ピノ・ブラン(ヴァイスブルグンダー)の発祥地はアルザスで、フランスでありながらドイツの影響が多い地域です。
    ココ最近ではピノ・ブランは作付面積が増加しているほどの主用品種になりました。しかもリースリングを上回る質のものもありますが、銘柄としてはリースリングの下に位置づけられているようです。
    また、意外かもしれませんが、ブルゴーニュやシャンパーニュでもかなり前から栽培されていて、しかもシャンパーニュワインにブレンドが認められている品種にもなっています。

     

    ドイツでは辛口に作られることが多く、ワインの色調は明るく、味は軽い印象があります。熟成させるのではなく、若いワインを飲むという習慣があります。
    イタリアやスペインではピノ・ビアンコになります。
    やはりスパークリングワインが中心になります。
    他にも東欧諸国でも使われています。具体的には、ハンガリー、ルクセンブルク、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、セルビアなどです。
    アメリカでもカリフォルニアで栽培されているようです。

     

    アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(Appellation d’Origine Contrôlée)、日本語では「原産地統制呼称」「原産地呼称統制」などになりますが、このクレマン・ダルザス(Crément d’Alsace)は、ピノ・ブランを使い、シャンパーニュと同じ瓶内二次発酵(メゴード・トラディショネル)方式で作られたスパークリングワインです。
    アルザスのワインを代表するもので、酸味があり、さわやかな味わいなのが特徴です。

     

    アルザスは未踏の地なので、ぜひ死ぬまでには一度、ここでピノ・ブランのワインを堪能したいと思っています。

     

  • フランケンワインとローテンブルク

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はローテンブルクについて勝手に語ります。

     

     

    フランケンワインはドイツのフランケン(Franken)産のワインのことですが、この地方は日本人にはロマンティック街道のある場所といったほうがわかりやすいかもしれません。
    見た目で特徴的なのはボトルで、通常のワインボトルと異なり平たく、丸いものです。この形には歴史があり、古代ローマ時代から受け継がれているといわれます。

     

    そのフランケン地方にあるロマンティック街道ですが、観光名所として人気の街はいくつかあり、中でもローテンブルクはこの街道で最も知名度が高いかもしれません。
    このロマンチック街道(Romantische Straße)は、一般的に「ローマへ続く道」という意味が強く、ローテンブルクもその街道沿いで、タウバー川を望む丘の上 (oberhalb der Tauber)に城が建てられたことで誕生した街です。西暦970年のことで、ライニガーという名の東フランケン地方の貴族による創設です。

     

    他のロマンティック街道沿線都市と同じように、旧市街が程よく残っていて、そこへ入るためには門があります。というより、旧市街そのものが城壁に囲まれているのです。
    ローテンブルクの場合は、レーダー門、ブルク門、コポルツェラー門、シュピタール門、ガルゲン門、クリンゲン門の6つの門があります。
    門は塔とセットのようになっていて、さらにそこから城壁が市街地を囲んでいます。そのため、古い城へ来た感覚になりますが、これこそがドイツの伝統的な都市の姿です。
    要塞に入ると、そこはタイムスリップしたかのような中世の雰囲気を残す旧市街です。

     

    実際に街の要塞化がスタートしたのは1170年以降のようで、市の中心には今でも残るヤコブ協会とマルクト広場があります。
    1274年には、ハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられ、市内に3つの市場もできました。
    この帝国都市は、神聖ローマ帝国の「皇帝直属の領土」という意味で、都市の格付けとしてはかなり高いものでした。

     

    しかし、中世最大の悲劇を齎した三十年戦争、ペストによる犠牲、さらにはフランス軍の占領、第二次大戦での空爆被害までありました。
    それでも多くの資金援助によって、街は忠実にもとの姿を取り戻しています。

     

    三十年戦争の際、「甲冑をまとった修道士」と呼ばれたティリー伯ヨハン・セルクラエスとフランケンワインの逸話もあります。
    史実ではないような伝説ですが、このローテンブルク名産のフランケンワインの美味しさを表す内容になっています。これも含めて三十年戦争は日本人が知らないほど、悲惨でドラマティックなものなので、別の機会に詳しく語りましょう。今日はローテンブルクでのプロローグです。

     

  • 秦氏を語る

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は秦氏について勝手に語ります。
    日本史の勉強ですが、ユダヤ関連記事とあわせてお読み頂けるとありがたいです。

     

    ユダヤの戒律とワイン
    イスラエルの失われた10支族

     

     

    日本史で秦氏といえば、古代日本の渡来系氏族の代表格といえます。

    日本の文化全体だけでなく、衣食住、すべてに多大な影響を与えた氏族のため、そのルーツについては諸説あります。その中でもイスラエル、つまり日ユ同祖論は神社のルーツなどともあわせて多くの人に論じられています。
    宗教儀式としての「酒」、要するにワインと日本酒ですが、この視点からでもかなり興味をひく内容になっています。

     

    保守的な日本の歴史学会からすれば、決定的な証拠がない状態では、昔ながらの考えに縛られているかもしれません。それでも、それぞれの説には、大きなロマンもあります。
    代表的なものを紹介しておきましょう。

     

    日ユ同祖論
    最も有名なのは佐伯好郎の説で、秦氏は景教(ネストリウス派)徒のユダヤ人であるとするものです。なかなか面白い内容で、「大闢大主」はダビデのことであるとし、秦氏建立の神社との関係なども考察しています。
    新撰姓氏録
    今では真実性の低いものといわれますが、なかなか魅力的な説です。秦氏は秦の始皇帝の末裔というもので、応神14年に百済から日本に来た弓月君(融通王)が祖とする説です。
    秦韓(辰韓)の子孫
    朝鮮半島で新羅の台頭により秦韓(辰韓)が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化したというものです。
    百済系渡来氏族
    やはり「弓月君」が「百済君」と解釈する説で、「日本書紀」でも弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの記述によるものです。
    チベット系民族
    チベット系民族で中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来するとする説です。

     

    では、日本ではなく、中国の史料に秦氏の記述はないかというと、「隋書」に出てくる記述が注目されています。
    それによると、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったという内容で、これが秦氏と結び付けられたりしています。

     

    ところで、諸説ある中で「日本書紀」に記述されていることから、弓月君こそが秦氏の先祖となっていますが、実在は不明の人物です。
    「日本書紀」では、応神天皇14年に百済から日本に来たことになっています。このときに多くの民を率いていたため、日本への帰化を希望していたといいます。
    しかし新羅の妨害があり、すぐには実現できなかったものの、応神天皇16年に民が渡来することができました。
    この応神天皇は、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性が高いといわれていますが、その反面、それ以前の皇統とは無関係な人物という考えもあります。そのため、応神天皇から新王朝が始まり、それが「河内王朝」だとする説です。
    そのような背景で登場する弓月君ですから、歴史の隠された部分は深く、まだまだ謎に包まれています。

     

    ワインにこだわる私としては、この秦氏については、より深く追い求めていこうと思っています。

     

  • イランは古代オリエント世界統治を忘れない

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイランとワインについて勝手に語ります。

     

     

    中東にあるイランという国は、日本人にはイスラムの国の一つという認識が強いかもしれません。
    しかし、他のイスラム諸国とは大きく異なる点があります。
    イランはかつてのペルシアです。そのため、今でもペルシア文化やその影響が残り、他のイスラムによる戒律の厳しさとは一線を画す点が多々あるのです。

     

    確かに人口の約9割がイスラム教シーア派で、1979年にはイラン・イスラム革命により、それ以降、他のイスラム諸国と同じように飲酒が禁止されています。
    それにもかかわらず、イランの労働社会省の調査によれば、イラン国内のアルコール消費量は年間6000万リットルもあるというのです。
    しかもイスラム教の戒律に基づいたイランでは、酒の飲酒・醸造・販売について、罰金またはムチ打ち刑が課せられるにも関わらずです。そういう意味でこれだけのアルコール消費がされているのは驚きです。
    成人1人あたりに換算すると、年間で約1リットル程度ですから、日本人の約8リットルと比較すると確かに少ないのは事実ではあります。それでもイスラム圏でここまでの消費量は驚異的です。

     

    そもそもイランの場合、イスラム帝国時代ですら飲酒は珍しくなかったのです。
    アラビアンナイトの『千夜一夜物語』を読んだことのある人なら、すぐにわかるはずです。
    これはイスラム化する以前から、そう、ペルシア文化によるものなのです。むしろ、イスラム原理主義のほうが、イランの国に合わないといえるのかもしれません。

     

    そのアルコール飲料の中で最も古いのがワインです。
    世界最古のワイン醸造地域もペルシア文化圏の周辺にあります。
    またビールも世界最古の地という説もあります。

     

    古代オリエント世界を統治したペルシア帝国を母体とするイランは、イスラム化した現在でも、また原理主義に押されても、決してペルシア文化を忘れていないのかもしれません。
    それが国の誇りなのでしょう。

     

  • リオグランデ・ド・スル州

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブラジルのリオグランデ・ド・スル州について勝手に語ります。

     

     

    南米のワインは日本でも一般的になりましたが、チリやアルゼンチンが中心で、ブラジルのワインはあまり馴染みがないかもしれません。
    しかもブラジルというと熱帯ジャングルのアマゾン川流域や、派手なカーニバルを思い浮かべたりして、あまりワインという印象は薄いかもしれません。
    しかし、ブラジルは広大な面積を誇る国家で、熱帯もあれば山岳地帯や高原などもあり、気候のバリーエーションは豊富です。必然的にブドウ栽培に適した地域も存在することになります。

     

    そのブドウ栽培最適地の一つがリオグランデ・ド・スル州です。
    ブラジルワインの90%近くがこの州で醸造されているほどなのです。

     

    では、このリオグランデ・ド・スル州とはどんな地域なのでしょうか。
    ブラジルの最南端に位置する州で、北部はブラジル高原の丘陵地帯で、それほど標高の高くない山脈が連なっています。南部はラ・プラタ盆地です。
    気候としては亜熱帯になりますが、四季がはっきりしていて、しかも降水量はどの月もほぼ均等という恵まれた条件になっています。
    寒暖差が激しい地域もあり、氷点下の気温や雪が降る場所もありつつ、夏は 30℃を超えることもあります。

     

    リオグランデ・ド・スル州の歴史もイエズス会が関係しています。
    先住民族はグアラニー族で、言語はグアラニー語。農耕民だったことから、植民地支配を進めるポルトガル人に対して、攻撃的な対応ではありませんでした。
    そのため比較的な早くポルトガルとの同盟が進み、さらにはポルトガル人との混血が進んでいきました。

     

    17世紀に、この地を伝導したイエズス会の教父はロケ・ゴンザレス・デ・サンタ・クルスで、サン・ニコラウ伝道地を建設しました。彼こそが欧州の人間として、また白人として、世界で初めてリオ・グランデ・ド・スルの地域を訪れた人物です。
    1738年には王領カピタニアとなり、リオデジャネイロの属領になりました。
    スペイン植民地との国境紛争もあり、一時的にスペイン側に占領されたこともありましたが、1776年にポルトガル領に戻りました。
    この地は、ポルトガルの侵攻は比較的に平和的だったものの、スペイン領との紛争により、血塗られた場所となってしまいました。

     

    それが今ではアルゼンチンやウルグアイとの国境近くでは、欧州からの移民により多くのワイナリーができています。
    新世界ワインですが、その出来栄えは伝統ある欧州のワイナリーに引けをとらないほどになっています。しかもバラエティ豊かで、この地域だけで多種多様な味のワインが出来上がっています。
    それはまるで、ブラジル人がそのまま多種多様で陽気ラテンというイメージと重なるようです。

     

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