今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • シベリアの真珠・シベリアのパリ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回語るのは、シベリアの真珠です。入院中ですが、いつものように勝手に語ります。

     

     

    琵琶湖のおよそ46倍という面積を誇る湖・バイカル湖が「シベリアの真珠」と呼ばれています。淡水湖で、最大水深が1,634~1,741mで、世界最深です。世界一の透明度でも知られています。
    北西にバイカル山脈、北東にバルグジン山脈が連なっています。他にも多くの山々に囲まれた湖で、湖にはウシュカニ諸島もあります。
    また世界で最も古い古代湖でもあるようです。しかも現在でもごくわずかではあるものの、広がっているといいます。

     

    バイカル湖にアクセスする拠点で最大の都市はイルクーツクです。
    ロシアの首都・モスクワからも日本に近いウラジオストクやハバロフスクからも鉄道で繋がっています。イルクーツク州の州都で人口は約59万人。

     

    バイカル湖が「シベリアの真珠」なのに対して、イルクーツクは「シベリアのパリ」と呼ばれます。
    古くから毛皮の集積地として発展し、中国だけでなく、タシュケントなどとも国境交易の基地になっていました。
    イルクーツクに滞在した日本人で有名なのは18世紀末(江戸時代)に訪れた大黒屋光太夫で、交易の中心地として繁栄した都市であることを述べていました。

     

    しかし一方でロシアから囚人や政治犯の送られる流刑地でもありました。
    歴史的によく知られているものとしては、1825年のデカブリストの乱で、このときの政治犯や、1863年の一月蜂起の参加者などがイルクーツクに流刑されてきました。

     

    ロシア正教会の宣教でも、シベリアの拠点とされ、聖人では「イルクーツクの奇跡者聖インノケンティ」がいました。
    市内の教会では、スパスカヤ教会が有名といえるかもしれません。
    シベリア東部で最も古い教会の1つで、18世紀に建てられました。レンガと石でできた白い教会です。屋根は緑で、独特なデザインといえます。「シベリアのパリ」と呼べれるものの、この教会は西欧のカトリック教会とは全く異質なものであることが分かります。

     

    ロシア正教らしい雰囲気はズナメンスキー修道院で見ることができます。
    いわゆるタマネギ屋根です。この修道院も古く、もともとは1693年に木造で建造され、1762年に石造りとして再建されました。商人のビチェーヴィンが寄付して建築された修道院です。

     

    ソ連時代と違い、イルクーツクで宿泊できるホテルの数も増えたようで、バーで気軽にワインもオーダーできます。ロシアだからといってウオッカやコニャックを注文する必要はありません。

     

    街並みは美しく、パリと表現することになるのは、サンクトペテルブルクやモスクワからの流刑民のおかげかもしれません。小さいながら都会的雰囲気を醸し出す街並みは、やはり都会で夢破れた人々の影響が多くありそうな気がします。

     

    シベリアの真珠を堪能し、シベリアのパリでワインを飲む。
    入院生活には、そんな想像が何とも贅沢です。

     

  • 蒲陶

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回語るのは、蒲陶です。

     

     

    蒲陶とは「エビカヅラ」と読み、山ブドウのことです。
    日本の文献で初めてブドウが登場したのが「日本書紀」で、かなり昔からブドウが日本に入ってきたことがわかります。おそらく中央アジアからシルクロード経由で持ち込まれたものと思われます。しかし、ブドウを原料とするワインについては、室町時代まで存在しないといわれます。それ以前に、ブドウの栽培についてすら記録がないようです。

     

    では、日本最初のブドウ登場シーンとはどのようなものでしょうか?

     

    イザナギとイザナミの黄泉の国のシーンです。
    イザナギは死んでしまったイザナミを追いかけて、黄泉の国へと向かい、ついにイザナミを見つけました。
    イザナギはイザナミに帰ってきて欲しいと思っていましたが、イザナミは黄泉の国の食べ物を口にしてしまったため、帰ることはできない。それでも黄泉の国の神と相談してみるので、少し待って欲しいと答えます。さらに、待っている間、決してイザナミの顔を見てはいけないと伝えます。

     

    しかし、見るなと言われると見たくなるのは人も神も一緒なのでしょう、イザナギは我慢できずず、櫛の歯に火を灯しイザナミの顔を見てしまいました。
    何と!
    驚くことに、イザナミの顔は以前の面影は皆無で、とても恐ろしく醜くなっていたのです。

     

    よくも恥をかかせたな!

     

    穏やかだったイザナミが、このときから怒り狂いました。
    イザナギは逃げます。
    イザナミは黄泉の国の魔女・黄泉津醜女に追いかけさせます。
    イザナギは、髪につけていた黒いかづらの輪を取って投げました。すると蒲陶(山葡萄)が実りました。追手はこれを食べ、その間にイザナギは逃げ延びました。

     

    黒いかずらからブドウが生まれ、それで黄泉の国から逃げるというストーリーですが、どうやらブドウは聖なる要素があったことが想像できます。
    キリスト教やユダヤ教で扱われるような宗教的要素が加わったとしても、少しも不思議でない状況だったといえるかもしれません。しかし、そうはならなかったのも興味深いといえます。

     

    ちなみに、イザナギですが、山ブドウだけでは逃げ切れず、次に右のミズラ(角髪)に挿していた櫛の歯を折って投げました。今度はタケノコが生えてきました。今度も、それを醜女が食べている間にイザナギは逃げました。
    さらに、イザナギが黄泉比良坂まで来たときには、桃の実を3個を投げたことで、追ってきた軍勢は退散しました。

     

    イザナギはその桃に、意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)という名前を与えました。

     

    日本神話なので、理屈ですべてわかるとは限らないでしょうが、このストーリーだけを見ていくと、何とも不思議な話です。そんな謎だらけの「日本書紀」を読みながらワインを飲むのも良いのではないでしょうか。

     

  • ビール大国のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は24年連続で国民1人当たりのビール消費量が世界一に輝いている(キリン調査より)ビール大国について語ります。

     

     

    「ビール大国」ときいていどの国を思い浮かべるでしょうか。
    ある程度の年齢の方なら、次の三都市を思い浮かべるかもしれません。

     

    ミュンヘン
    札幌
    ミルウォーキー

     

    国でいえば、ドイツ、日本、アメリカとなります。
    しかし冒頭から述べている「ビール大国」は、これらの国ではありません。チェコです。

     

    現在の国名はチェコ共和国で、国境が現在のように確定したのは新しくて、1993年です。この年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。これは平和的分離でビロード離婚でした。
    首都はプラハで人口約127万人、ビール消費量が多いのはこのプラハから西側の地域になります。

     

    西側に隣接するのは、やはりビール大国のドイツで、この国境線から東のスロバキアまで広がるのがボヘミア高原です。南西部のドイツ国境地帯にはボヘミアの森が広がっています。
    ビールについてさらに付け加えると、一人当たり161. 5Lという量で、これは日本の3.3倍の消費量に相当するのだとか。

     

    そんなビール消費量の多いチェコではありますが、ワインはというと、東武のモラヴィア地方が名産になっています。チェコ語でMorava、ドイツ語では Mährenです。
    ワインの産地として知られるのは南部地域で、モラヴィア北部は森林地帯、中央部は低地で、小麦や亜麻、ビートなどが栽培されています。

     

    歴史的にチェコというより、ボヘミアとスロバキアの中間に位置することで、民謡、慣習、食文化などのモラヴィアの文化は独特ともいえるかもしれません。言語も、モラヴィアのハナー地方では、独特の方言だといわれます。
    チェコのワイン生産量の中でほとんどを占めるモラヴィア・ワインですが、歴史的にもマリア・テレジアの宮廷に献上されたこともあります。

     

    しかし、旧共産圏に属していた時代にはワインも絶滅状況でした。
    ソ連崩壊から東ヨーロッパの激変を経て、ワインも復活し、そのクオリティも評価されるようになりました。

     

    ユネスコの世界遺産に登録された「レドニツェとヴァルチツェの文化的景観」にあるヴァルチツェ城は、現在、国立ワイナリー・センターになっています。この城はリヒテンシュタイン家の居城でしたが、今ではこの地下でが、チェコのワインコンテストの上位100位までのワインが試飲できる場所になっていて、人気観光スポットでもあります。

     

    ワインは白ワインです。
    白ワインといえばドイツですが、この地も、ボヘミアと強い繋がりを持ってきた歴史的背景があるものの、ハプスブルク家が支配していた時代もあり、都市部でドイツ的な性格が強まっていきました。

     

    チェコのビールも良いですが、ワインにも注目です。

     

  • ロマンティック街道のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は日本人に人気の観光地・ドイツのロマンティック街道について語ります。

     

     

    おそらく日本人観光客にとって、ドイツ旅行で最も人気の高い地域の一つがロマンティック街道ではないかと思います。
    日本人には「ロマンティック」、つまり「ロマン」の響きが良いのではないかと思います。しかしこの意味は「ロマン主義的」という意味であり、一般の日本人が想像する通俗的なものではありません。

     

    ちなみに有名な話では、「地球の歩き方(ヨーロッパ)」(1980年版~2001年版)と「地球の歩き方(ドイツ)」(1987年版~2005年版)での表記があります。かつての貧乏大学生のヨーロッパ放浪のバイブルでしたが、この書籍の中では、ロマンチック街道の語源を「ローマへ通じる道」とする説を掲載していました。
    そのせいか、しばらくの間、この説を信じていました。

     

    さて、このロマンティック街道ですが、現在のドイツ国道では25号線が中心となります。快適な道路で、バスで旅するのが一般的でしょうが、レンタカーでも十分に楽しめると思います。
    ヴュルツブルクをスタートし、最終的にはフュッセンに至る街道ですが、沿線のすべての町が観光客で賑わうわけではありません。かつての都市の構造がそのまま残り、中世の面影がある町が人気があり、観光バスもそのような町にしか行きません。
    しかし観光バスが素通りしてしまう町でも、なかなかに魅力的な場所はたくさんあります。たとえばローテンブルクやディンケルスビュールには立ち寄っても、その間にあるフォイヒトヴァンゲンは観光客の姿がなく、静寂を保っています。それでも修道院を中心にした古い町並みは、ドイツの伝統的な町の雰囲気を十分に感じます。

     

    このフォイヒトヴァンゲンですが、今では静かな少し寂れた雰囲気を持つ町ですが、かつてはフランケン地方の中心都市の一つでした。
    フランケン地方といえばワインです。

     

    バイエルン州の北端地域が中心で、ブドウ畑の総面積は6.100ヘクタールありますので、ライン川やモーゼル川沿いのブドウ畑と比較しても遜色ありません。
    ここでの川はマイン川で、ブドウ畑はマイン川とその支流流域に集中しています。
    白ワイン品種が80%以上を占めているので、いかにもドイツらしいワインという味かもしれません。

     

    ワインをあまり飲む習慣のない人でもフランケン地方のワインは飲みやすいかもしれません。そういう意味ではあまり人を選ばずにプレゼントできるかもしれません。
    もちろんロマンティック街道沿いの鄙びた町で飲むのも最高です。想像するだけでドイツへ行きたくなってしまいます! 

     

  • ナバーラのワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ザビエルについて勝手に語ったので、彼の出身地であるナバラ王国、現在のスペイン・ナバーラ州とワインについて語ります。

     

     

    スペイン語では「Navarra」、バスク語では「Nafarroa」と表記するナバーラ州は、スペインの自治州です。
    ザビエルの時代にはナバラ王国があり、その後にスペイン帝国に併合されました。それでも一定の自治権を持ち、公用語はスペイン語だけでなくバスク語も指定されています。

     

    この地方の歴史は古く、最古の考古学遺跡は、18,000年前~11,000年前の後期旧石器時代のマドレーヌ文化期のものだといいます。また、英国でお馴染みのストーンサークルなどもアララール山地にあります。
    ケルト人、カルタゴ人などがこの地を征服し、その後に古代ローマの支配下になりました。ローマ化された地域となり、次に西ゴート族やフランク族が侵入してきました。西暦824年にはバスク人の族長が何とイスラム勢力と手を組むことで、フランク族に勝利しました。これでパンプローナ王国が誕生し、後のナバラ王国になりました。このナバラの名については、7世紀の西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場しているようです。

     

    スペインの歴史の一部はイスラム勢力との戦いの歴史ともいえます。
    対フランク族で、イスラム勢力と手を組んだとはいえ、905年にヒメネス王朝になると、イスラム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返されることになりました。
    1004年に即位したサンチョ3世は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返しました。その上で王国の地位を強固なものとし、ピレネー山脈以南のキリスト教圏の大部分を支配するようになりました。
    以前にとりあげたレコンキスタ(イベリア半島のレコンキスタ)ですが、この過程において、初めてキリスト教勢力がイスラム教勢力を軍事力で上回ることになりました。

     

    サンチョ3世死去後は、国の勢いは低下し、1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、1134年に独立するものの、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされました。
    12世紀末にはカスティーリャ王とアラゴン王に攻め込まれ、その後にナバラ王国は海岸部の領土を失ってしまいます。内陸国となり、ピレネー山麓の小国になってしまいました。

     

    1234年にサンチョ7世が死去し、嫡子がいない関係でシャンパーニュ家のテオバルド1世が即位することになりました。これでフランス王朝となり、国王はフランス在住ということになってしまいました。
    1305年にはカペー朝になりましたが、ここでもフランス王が兼ねる体制でした。ユダヤ人迫害はフアナ2世の治世で、1348年から1349年には黒死病が蔓延します。これで人口の60%が失われました。
    14世紀半ばを過ぎた頃には、ナバラ王国の国力は未だかつてないほどの弱体化した状態にまでなってしまいました。

     

    さらに、カルロス2世の治世になると、カスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受け、1379年には20の砦をカスティーリャ王国に占領されてしました。
    次に王国が最も混乱した時代に入ります。
    1441年にブランカ1世女王が死去し、共同君主だった夫のフアン2世は長男に王位を譲らなかったことから1451年にナバラ王国の内戦に発展することになってしまいました。
    周囲の国々の状況はというと、アラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国が誕生しています。このスペイン王国の領土は、イスラム勢力地域とナバラ王国を除いたイベリア半島全地域といってもよい規模でした。

     

    ついに1512年にスペイン王国はナバラ王国を併合し、フランス王朝が終焉しました。

     

    17世紀の時点では、ナバラの経済は農業がほぼ唯一のものといっていい状況になっていました。農産物や羊毛・ワインなどは輸出貿易をおこなっていました。
    1659年にピレネー条約でスペインとフランスの国境が確定します。ナバラの領土問題が解決し、18世紀初頭までナバラは「王国」と呼ばれていました。
    その後はナポレオンによる半島戦争、カルリスタ戦争などがあり、王国の名も消えていくことになりました。

     

    ナバラ王国のワインはというと、12世紀には国外に輸出されています。

    巡礼者向けのガイドブックには「ナバーラのワインは美味であるから決してワインの虜になってはいけない。悪意のこもった振る舞い酒にも用心を」と記されていた[5]。13世紀から14世紀にはネーデルラントなどに輸出され、18世紀初頭にはロシアのピョートル大帝がアルコール度数の高いナバーラ地方産の赤ワインを愛好した。

    (出展:Wikipdia「ナバーラ (DO)」)

     

    ナバーラのワインは虜になってしまうだけの味と魅力があったのでしょう。
    過酷な歴史に翻弄された小国で醸造された魅力あるワイン。ぜひ味わってみたいものです。

     

  • ザビエルがもたらした赤き酒

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインを日本へもたらしたといわれるザビエルについて勝手に語ります。

     

     

    日本史の授業で必ず登場するフランシスコ・ザビエルですが、日本で最初にキリスト教を伝えた人物として記憶したことと思います。実際にザビエル以前にキリスト教が日本に伝来していなかったといのうは、実をいうろ甚だ疑問になりますが(ネストリウス派・景教と空海の関係など)、イエズス会が公式に日本に布教にきた事実は間違いありません。
    そのザビエルですが、ジョアン・ツズ・ロドリゲスの「日本教会史」によれば、キリストの血を象徴する「赤き酒」、つまりワインを島津貴久に献上し、さらに洗礼のためにも日本にもたらしたと記されています。

     

    日本史で登場するため、欧州の歴史との関係がわかり難いかもしれませんが、純粋にザビエルに注目してみるのも良いかと思います。
    ザビエルの生年は1506年頃といわれ、出生地はナバラ王国です。あまり聞き慣れない国名でしょうが、それもそのはず、イベリア半島の小国で、ヨーローッパの歴史に翻弄された国といえます。

     

    またザビエルといえばイエズス会です。
    イエズス会は1534年に創設されましたが、その創設メンバーの一人がフランシスコ・ザビエルです。他には、イグナチオ・デ・ロヨラ、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、シモン・ロドリゲス、ピエール・ファーヴルがいて、6名の同志です。
    1540年にパウルス3世により承認され、以降、世界各地へ宣教に向かいました。
    ちなみに、「イエズス」とは、中世ラテン語で、現代の「イエス」です。古典的なカトリックの日本語表記です。

     

    歴史的に見るとイエズス会の活動とは、プロテスタントが拡大する時期とほぼ重なります。プロテスタントに対抗するための組織というわけではありませんが、実際には、対比できることも多々あります。
    ただプロテスタントと共通する部分もあり、教会改革や当時のカトリックの汚職、不正、霊的倦怠についてはを激しく批判していました。

     

    さて、冒頭に述べた島津貴久との謁見ですが、1549年4月にコスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデス、マヌエル(中国人)、アマドール(インド人)、そしてゴアで洗礼を受けたヤジロウ(日本人)らと、ゴアから日本を目指し、同年9月に、伊集院城でのことです。薩摩国守護大名・島津貴久に謁見し、ザビエルは宣教の許可を得ました。

     

    このときの「赤き酒」・ワインを日本人が飲んだとして記された最初の記録といわれます。

     

    しかし、島津貴久は仏教からの反発や、ポルトガルとの通商の失敗等々から、態度を一変させ、キリスト教を禁教としてしまいました。
    そこで1550年8月には、ザビエルたちは肥前国平戸へ、さらに10月には、京を目指すために平戸を出立し、11月に周防国山口に入りました。
    周防の守護大名・大内義隆に謁見することができたものの、男色を罪とするキリスト教の教えに対して大内義隆が激怒したといいます。そのため、12月には周防を立つことになりました。
    その後、岩国から海路で堺に上陸しました。

     

    ザビエルについては、欧州側の視点、キリスト教伝来については景教との関係など、実に興味深いことがあります。また当然ながらワインも付随するものです。
    そこで、ザビエルについての勝手な語りはまた機会をみて続けることにします。今回は中途半端ですが、ここまで。

     

  • プレゼントは媒介役

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインをプレゼントするという側面から、プレゼントについて勝手に語ります。

     

     

    プレゼントは外来語なので、純粋な日本語にすれば「贈り物」とか、「ご進物」に相当するでしょう。
    所有権をAからBに移すことになるという意味では、商品の売買に似た構造がありますが、根本的に異なる点があります。もちろんそこに金銭授受がないことが挙げられますが、それ以上に、プレゼントとして所有権が移転する際に、Aの人格や感情などをBに伝達する役割があるという点です。

     

    プレゼントで渡すものがワインであれば、AがBにワインを媒介として伝達する感情がある、ということになります。この場合、ワインは単なる媒介役ではなく、Aの抽象的な感情等を具象化させる役目も担っているといえるでしょう。

     

    その伝達する感情には、愛情や憐憫などもあり、また単なる習慣的行為もあります。しかし、ワインをプレゼント、しかも贈る相手の生まれ年のワインや、オリジナルラベルのワインなどでは、それだけで媒介役としての機能をフルに発揮しているのではないでしょうか。
    仮に単なる習慣でのプレゼントだったとしてもです。

     

    ところでプレゼントに贈るものとしては、日本では食物が多かったといいます。
    柳田國男が、贈答品で食物が重視される点を考察していました。それによると、起源は神への供物を人にも提供した点であるとしていました。
    これはキリスト教のワインやパンとの関係とも違い、独特な風習といえるでしょうが、この起源であれば日本酒やワインは、プレゼントに最適であるともいえそうです。

     

    やはりプレゼント、ギフトにはワインが一番ということです。

     

  • イスラエルの失われた10支族

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイスラエルの失われた10支族を勝手に語ります。
    ユダヤとワインについては、「ユダヤの戒律とワイン」のときに語りましたが、今回は行方不明になったユダヤ人がテーマです。

     

     

    一般にユダヤ人といわれるイスラエルの人たちですが、旧約聖書では12部族が記されています。
    その中で、行方不明になった部族が、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族の10部族(支族)です。

     

    イスラエルの歴史は、アブラハムがメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことから始まります。
    そして、孫のヤコブの時代になってエジプトに移住したものの、子孫の時代になってエジプト人の奴隷となってしまいます。この奴隷時代は400年程続いたといわれます。
    ここで登場するのがモーセです。
    旧約聖書でも一番のクライマックスを迎えます。モーセがイスラエルの民族をエジプトから連れ出すのです。紀元前13世紀頃といわれています。そして40年間の放浪の末に、約束の地に定住し、徐々に周辺を征服し、国家としての繁栄を築いていきます。

     

    ダビデ王の時代には12支族がひとつでしたが、国が南北に分裂したことにより、支族の分断にも繋がりました。
    北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされました。このときに10支族の中で指導者層が虜囚として連行されてしまいました。アッシリア捕囚です。
    このことはサルゴン王の碑文にあり、虜囚の人数は2万8,000人程度と推定されています。しかし、肝心な支族の行方については、文書に残されていませんでした。つまり、捕囚された指導者もそうならなかった人々も、具体的な行き先がここで途切れてしまったことを意味します。
    南王国はユダ王国といわれますが、この北王国滅亡により、2支族側から見て、「失われた10支族」とよばれるようになったということです。

     

    行方不明となった10支族について、イスラエル政府は有望とされた説を取り上げているものの、通説には至っていないのが実情です。

     

    その数多くある説の中で、日本人が関係するのは日ユ同祖論です。
    具体的には帰化氏族の秦氏が失われた10支族ではないかという説です。一時はかなり有名な説で、日本よりむしろ国際的に知れ渡ったこともあります。
    エフライム族、ガド族、イッサカル族などが日本に移住したという説もあります。

     

    シルクロードによる東西交流は、現代の我々が想像する以上に、活発に行われていたようで、まさに東西の大動脈だったといいます。そのため、中国へ流れた説も当然にあります。さらに、この説とあわせて、さらに東へと向かう、つまり日本へと流れたということも考えられます。

     

    日ユ同祖論は、それだけで興味深いテーマですが、ここはプレゼント専門シエル・エ・ヴァンですから、この視点で見ることにします。
    つまり、宗教儀式での「酒」です。ワインと日本酒です。仏教やイスラム教などとは明らかに異なる「酒」の扱いであり、ユダヤ教と日本神道との共通点も見えてきます。

     

    このテーマは、実はかなり深く、また広いものです。
    ユダヤだけでなく、その後の景教(ネストリウス派)との関係もあり、古代日本の神話や空海以降の日本仏教にも関係する壮大なテーマに繋がります。ワイン屋の店長には手に負えないレベルになりますが、今後も機会があれば触れていきたいと思います。

     

  • ワインとラク~トルコ蒸留酒~

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトルコの話を勝手に語ります。

     

     

    アラビア語圏ではアラックといわれるトルコの「ラク」をご存知でしょうか?
    無色透明ですが、水を加えると白濁するのが特徴です。
    そのことからトルコ語では「獅子の乳」という意味の言葉で呼ばれているそうです。アルコール度数は高めで、45%以上あります。食前酒の役割を担うことが多いといえます。

     

    このラクの原料ですが、ワインなのです。

     

    実はトルコというのは、ブドウ栽培面積は世界でも屈指の規模を誇っています。トルコワインもありますが、宗教はイスラム教スンニ派で、イスラム教徒人口で計算すると全人口の99%だといわれます。
    しかし他のイスラム系の国と異なり、飲酒が厳禁とまではなっていません。そのためトルコワインだけでなくビールも製造されています。
    そしてワインを原料とする蒸留酒がラクです。

     

    ただし酒類を多く飲むのには「壁」があるのはイスラム圏ならではです。
    それは税率です。
    他のイスラム諸国と同様に税率が高いため、気軽に飲用するものではないのが現実です。そのため、トルコワインは国内消費より輸出が中心のようです。

     

    ブドウ栽培については、食用が中心で、ワイン用としてはごくわずかなようです。しかも、製造されたワインは、ラクの原料にするために蒸留します。その割合はワイン全体の約4分の1程度にまで及ぶようです。

     

    そういう意味ではトルコワインは貴重ともいえるかもしれません。
    トルコ原産のオクズギョズやボアズケレ、カレジックカラスなどの品種がトルコワインの赤で、白なら、やはりトルコ原産のナリンジェやエミール、ボルノファミスケティ種などがあります。
    日本でラクを飲むというのもありでしょうが、やはり今宵はワインを贈りたいと思います。

     

  • モルダヴィア

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は日本人には馴染みの薄いモルダヴィアの話です。今回も勝手に語ります。

     

     

    世界地図を見て、モルダヴィア、モルダビア、あるいは、モルドヴァ、モルドバといわれる地域がどこか、おそらく多くの日本人は指し示すことはできないでしょう。
    国の単位でいえば、ルーマニア、モルドバ、ウクライアナにまたがる地域で、地理的には、ルーマニアの東北部でカルパティア山脈の東側、プルート川の西から、プルート川の東側のドニエプル川の西、ベッサラビア地方を含めたエリアになります。

     

    これだけ聞いても、どの場所なのかイメージができないかもしれません。
    この地域に住む人は、ルーマニア人が中心で、モルドバでも同様です。しかも言語も通貨の名称も同じです。しかしこの地はヨーロッパの内陸部ですから、領土問題は数多く経験しています。

     

    モルダヴィアには、太古よりスラヴ人、ハンガリー人、タタール人などが進出してきました。征服した民族もバラバラでしたが、ようやく14世紀になってルーマニア人がモルダヴィア公国を建国しました。
    しかし、次に攻めてきたのは強大な敵でした。オスマン帝国です。
    オスマン帝国の従属国になってしまいましたが、何とかモルダヴィア公国は自治を認められるようになりました。

     

    18世紀に、そんな従属国の扱いに激変が起きます。
    その契機がロシア帝国です。キリスト正教会の保護を名目にして、モルダヴィアの領有権を主張し、オスマン帝国に宣戦布告したのです。
    ここからの歴史を語ると、かなり複雑になりますので割愛しますが、現在は旧ソ連を構成していた時代を経たモルドバ共和国とルーマニアに別れ、その境目はよくわからないような関係になっているといえます。

     

    このモルドバはワインで知られています。

     

    ワインの歴史も古く、モルドバ北部のナスラヴチャ村近郊では、ブドウ葉の化石Vitis teutonicaが発見されています。ワイン醸造していたかどうかはともかく、少なくともブドウ栽培については、紀元前2,800年まで遡れるようです。
    ドニエストル川とプルト川に挟まれた流域では、現在までブドウ栽培とワイン生産が続いているのだと思われます。

     

    この地域の歴史やワインについては、まだまだ語りたい内容が多いので、次の機会に続くことにします。日本人が知らないワイン名産地の歴史です。

     

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