今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ロスチャイルド家とワインの関係

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    現在のアメリカの大統領・ドナルド・トランプが、実業家時代に支援されていたロスチャイルド家について語ります。もちろん「ワインブログ」ですから、ワインとの関係にも触れます。

     

     

    ロスチャイルド(Rothschild)家といえばヨーロッパの貴族であり、財閥でもあり、歴史的側面からも研究材料になるほどの家柄です。
    日本では「ロスチャイルド」と表記しますが、これは英語読みで、ヨーロッパに大きく関係しているファミリーなので、ドイツ語読みでは「ロートシルト」、フランス語読みでは「ロチルド」などとなります。

     

    歴史的には、神聖ローマ帝国にまで遡ることができます。
    もともとはフランクフルトのユダヤ人居住区にいたユダヤ人でした。ただ、このユダヤ人居住区というのは、フランクフルト・ゲットーといい、ユダヤ人を隔離した地域です。ドイツ語でFrankfurter Judengasseといい、「王庫の従属民」という法的地位をもつユダヤ人の地域でした。
    したがって、神聖ローマ帝国の一般市民とは明確に区別される存在でした。

     

    ロスチャイルド家として勃興したのは、マイアー・ロートシルト(1744-1812年)です。
    古銭商をしていましたが、ハーナウのヘッセン・カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルムが顧客になり、その後の1769年に宮廷御用商に任じられるようになりました。
    これによりヴィルヘルムの資金力を活かし、他の王侯貴族や軍人、他の産業にも貸し付けることができるようになりました。

     

    これを可能にしたのは、ヴィルヘルムが傭兵業を営んでいて、植民地対策の兵員不足だったイギリスに貸し出すことで、商売的に大儲けをし、ヨーロッパ随一の金持ちだったことが関係しています。
    マイアーは両替商も兼業するようになり、ヴィルヘルムの傭兵業とも関わることで、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事も任されるようになりました。

     

    しかし1785年に、ヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承することになり、状況は少し変化します。ヴィルヘルムがカッセルに移ったことで、マイアーとヴィルヘルムは疎遠になり、ある意味で危機的状況ともいえることになったのです。

     

    それでも、両替商とは別に、物品商を続けていたわけですが、こちらは順調に売上を伸ばしていました。それはフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたことも関係していたようです。

     

    疎遠になっていたヴィルヘルム(この頃はヴィルヘルム9世)とは、マイアーの息子たちがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになり、1789年にはロスチャイルド家はヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるようになりました。
    また、1795年頃からはヴィルヘルム9世の投資事業にも参加していました。

     

    次に飛躍のチャンスとなったのはナポレオンが関係しました。
    1806年にナポレオンは大陸封鎖令を出しました。イギリスとの貿易を禁じたのですが、これがロスチャイルド家にとっては絶好のチャンスになりました。
    イギリス植民地からの輸入に依存していた商品、例えばコーヒーやタバコなどがヨーロッパで高騰することになりました。当然の結果ではありますが、これはイギリスでも悲劇を起こします。
    イギリスでは、フランスやドイツなどに輸出していたことで確立された巨大マーケットが、大幅に喪失したことを意味します。そのため、植民地産の商品価格が大暴落することになったのです。
    商魂たくましいマイアーの三男ネイサンは、当時イギリスに常駐していたので、ロンドンで植民地産の商品を安く大量に購入し、大陸へ密輸したのです。
    父や兄弟たちが確立している通商ルートがありますので、この密輸はヨーロッパ大陸各地に販売網を広げることに成功しました。
    この密輸ルートはイギリス政府にもありがたいことで、政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送もネイサンに任せるほどになったようです。

     

    また、ロスチャイルド家はユダヤ人の解放をナポレオン法典を利用して推進する役割も果たしました。

     

    ナポレオン法典では、人民の法の前の平等・宗教的信仰の自由が謳われていました。この法典をフランクフルトにも導入する際、大公ダールベルクはフランクフルトのユダヤ人たちに金銭を要求し、そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えたのです。これによってユダヤ人の開放が実現しました。
    もっともこれは、1815年にはフランクフルトが自由都市の地位を取り戻したことで、ユダヤ人の市民権そのものが再びなくなってしまうことになりました。

     

    1812年にマイアーは死去しましたが、ロスチャイルド家一族の五家が創設され、相互連絡を蜜にし、それぞれに発展していきます。
    ウィーン体制下では、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家から男爵位を与えられるようになりました。
    また、アメリカ公債を引受けたり、ヨーロッパでは鉄道事業への投資を展開したりしながら、ますますの発展をしていきます。

     

    ロスチャイルド家は、19世紀には栄華を誇るほどの一族ではありましたが、20世紀には衰退の一途をたどるようになりました。
    そしてナチスの時代です。
    ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称など、ナチス政権ではすべて取り払われました。ロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も買い取られ、フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムの娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルトの財産も政府に没収されてしまいました。
    第二次世界大戦終了時には、ロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけになり、衰退は更に進んだことになりました。

     

    しかし、ロスチャイルド家は復興しました。2003年に、ロンドン家とパリ家の両銀行が統合され、ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設されました。

     

    さて、ロスチャイルド家とワインの関係です。
    ボルドーワインの「5大シャトー」の中で、2つはロスチャイルド家の所有です。
    シャトー・ムートン・ロートシルトは、ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入し、シャトー・ラフィット・ロートシルトはマイヤー・ロスチャイルドの五男ジェームスが1868年に購入しました。

     

    波乱万丈のロスチャイルド家ですが、オーナーの立場にあるシャトーのワインは、世界的に最高の格付けなので、それらの歴史とは関係なく、純粋に味を楽しめるでしょう。プレゼントにも最適です。

     

  • 伝説的な聖人クリストフォロス

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインの守護聖人を取り上げましたが、今回は教派によって異なる伝説の聖人について語ります。

     

     

    クリストフォロス(Christophoros)は、もともとギリシア語で「キリストを背負うもの」を意味し、ローマ皇帝デキウスの時代に殉教した聖人です。
    ワインの守護聖人となっている地域は、現在のオーストリアやスイスのチロル地方になります。直接的にブドウやワインに関係するのではなく、荷物運搬や交通の聖人であることから、ワインの運搬や輸送の加護を仰ぐ対象としての守護聖人です。

     

    クリストフォロスの祝日とされてきたのが7月25日ですが、現在のカトリック教会では聖人暦から除外されています。それは「史実性に乏しい」という理由だそうです。
    現在、聖人としている教派としては、東方教会、非カルケドン派、聖公会、ルーテル教会です。また、クリストフォロスに関連する伝説は、各教派で異なっているのも特徴といえます。それほど「幅のある」伝説の聖人というのも珍しいかもいれません。

     

    最も知られるクリストフォロス伝説としては、東方正教会かもしれません。
    東方正教会は、もともとは東ローマ帝国の国教としてスタートしていることから、東ヨーロッパを中心とした地域に今でも広がる宗派です。しかし、意外と知られていないのは、世界の大陸すべてに東方教会の信者が分布しているといわれています。
    この東方教会では、犬の頭を持った人物として描かれています。

     

    なぜなのかというと、東方教会には犬頭人に関する伝承があるからです。
    デキウス帝の時代のことです。

     

     

    アフリカ北部にあるキレナイカのベルベル人部族の一部族「マルマリテ族」の出身であるレプルブスという巨人が捕虜されました。この部族は勇猛な犬頭人だったといわれていました。
    しかも人間を食べるという習慣があることから、帝国内では恐れられていた存在でした。やがて彼はキリスト教を受け入れ、改修することになったのです。さらに、信仰を受け入れただけでなく、自らもキリスト教の教えを説くようになりました。
    しかし、皇帝の命により、捕らえられてしまいます。処刑が決定されましたが、常人と異なることから、処刑は何度試みても失敗してしまいます。そのため、処刑に至るまでの期間に、多くの人々が彼によって信仰を受け入れることになったという伝説です。

     

    東方正教会では「マルマリテ族」の出身である巨人の名としてレプルブスが出てきましたが、カトリック教会ではレプロブスという名前のローマ人だったという伝承になります。
    また別の伝承では、カナン出身でオフェロスという名前だったといわれています。

     

    一般的には、「キリストを背負ったもの」という意味が「クリストフォロス」となっていて、これには聖書にはない別の伝承がもとになっています。

     

    ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言いました。
    彼はその男の子がまだ幼い子で、かなり小さいことから、体重も軽いだろうから楽勝だと思い、引き受けました。ところがです。男の子を抱えて川を渡っているうちに、その男の子の体重はみるみるうちに重くなっていきました。異様な重さになり、レプロブスは倒れる寸前にまで至りました。
    そして、あまりに重くなった男の子は、普通の人間ではないと思い、レプロブスは男の子に丁重に名前をたずねました。
    男の子は答えました。

     

    なんと、イエス・キリストだったのです。
    なぜ体重が異様に重たかったのかというと、全世界の人々の罪を背負っているためだったのです。

     

    イエスは川を渡りきった場所で、レプロブスを祝福しました。さらに、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じました。

     

    この伝承から、荷物運搬や交通の聖人となり、さらにはワインの運搬や輸送の加護を仰ぐ対象になったともいわれます。

     

    他にもクリストフォロスには様々な伝承があり、巨人ゴルムの伝説やウルフ川の大きな怪物伝説などもあり、バリエーションはかなりあります。

     

    日本でもスサノオノミコトやオオクニヌシノミコト、あるいは弘法大師などは、バリエーション豊富な物語がありますが、キリスト教関連の聖人伝説はあまり馴染みがないせいか、新鮮な気もします。
    古今東西、聖人には聖人と呼ばれるだけの逸話は、単独で話が広がる可能性があるということでしょうか。時にはそんなことを考えながらワインを飲むのはいかがでしょうか。

     

  • ローマ教皇・ウルバヌス1世

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインと関係深いローマ教皇のウルバヌス1世について語ります。

     

     

    ウルバヌス1世は、ローマ教皇の第17代で、在位は222~230年でした。
    第16代のカリクスツス1世(在位 217?~222年)のあとを継ぎました。
    この時代のローマ教会は比較的平和な時代で、ローマ帝国の皇帝はアレクサンデル・セウェルスでした。

     

    ウルバヌス1世は、聖女セシリアの夫であるウァレリアヌスを洗礼したと伝えられますが、この改修伝説よりも、ブドウやワインの守護聖人として名高いかもしれません。
    しかし、なぜワインの守護聖人になったのかについては、実はハッキリしていません。

     

    一説では、ローマ教会の反対派に迫害を受けた際、ブドウの木の陰に隠れたものの、矢が当たり、殉教してしまったといわれます。また、それとは逆に、その際に九死に一生を得たことで、ワインの守護聖人になると誓ったともいわれます。いずれにしても矢の攻撃に対して、ブドウの木を防御に使ったということが関係しているようです。

     

    実はさらにもうひとつ、このワイン守護聖人説には、混乱させる原因があります。

     

    5世紀ごろのラングレーの司教にウルバヌスという人物がいたのです。
    こちらのウルバヌスもブドウ園主から崇拝されていました。そのため、いつのまにか両者が混同されてしまったようです。

     

    聖ウルバヌスの記念日は5月25日で、この日はウルバヌス1世の殉教した日です。ちなみにラングレー司教のウルバヌスの殉教日は1月23日です。
    かつてはこの記念日には盛大な祭りが行われていたようです。聖ウルバヌスに扮した人物が馬で街中を周り、町の人達が勧めるワインを飲みほしていったといいます。かなり陽気な祭りだったことが伺いしれますので、殉教を記念した祭りという性格よりも、この時期のブドウの花で、その年の豊作を占うための農民の行事だったようです。
    そのため、この祭りはローマ教皇の殉教記念日に行われているものの、教会暦では認められていなかったようです。

     

    さらに付け加えると、この聖ウルバヌス殉教の祭りは、次第にエスカレートし、教会の厳格さと相容れないほどの方向へと進んだようです。まさに乱痴気騒ぎ状態となり、教会側だけでなく、領主もしばしば禁止令を出したようです。

     

    現在でも続く祭りですが、現在ではかつてのような派手なものではないそうです。

     

  • ワインカラーとワインレッド

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は歴史の旅から外れて、ワインカラーとワインレッドについてです。

     

     

    「ワインカラー」を辞書で調べると「ワインレッドのこと / ワインレッドと同じ」となっていました。
    と、いうことはワインの色は赤ということになります。

     

    ワインレッドという言葉は、それほど歴史があるわけではなく、18世紀頃に誕生したといわれます。
    単なる赤い色というのではなく、濃い渋みのある色、要するに赤ワインの色、ということでしょうか。

     

    では、白ワインやロゼはワインなのにワインカラーではないことになります。

     

    誠にヘンな話のような気もします。
    そこでさらに調べてみると、ワインレッドは、英語でburgundy、フランス語でbourgogneとも呼ばれるようです。要するにフランスのブルゴーニュワインに由来するということです。
    つまりブルゴーニュのワインがワインレッドで、それがワインを代表するワインカラーとなったのかもしれません。

     

    確かに白ワインの色をワインカラーとするには、少し違和感があるかもしれません。

     

  • ワインの守護聖人・3人のヨハネ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は前回に続いてワインの守護聖人を取り上げます。3人のヨハネです。

     

     

    キリスト教とワインの結びつきは布教との関係が強いといえますが、それ以外の関連で「ワインの守護神」として挙げられるのが3人のヨハネです。

     

    まず、1人目のヨハネはバプテスマのヨハネです。
    バプテスマとは洗礼のことで、キリスト教の礼典の一つですが、このヨハネはキリスト教誕生以前の人物です。
    登場するのは「新約聖書」の福音書で、イエスに対して、ヨルダン川で洗礼(バプテスマ)を授けた人物として記されています。

     

    このバプテスマのヨハネについては、領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで処刑されましたが、この顛末を戯曲としたのが、オスカー・ワイルドの「サロメ」です。
    イエスに多大な影響を与えた預言者であり、キリスト教ではイエスの先駆者として位置づけています。
    では、なぜバプテスマのヨハネがワインの守護神なのか、というと、、ヨハネの聖名祝日・キリスト教の聖人記憶日が6月24日で、ちょうどこの時期がブドウが開花する時期に相当します。この開花具合によって、その年のブドウの出来不出来につながることからワインの守護聖人となっているそうです。

     

    次のヨハネは、イエスの使徒であるヨハネです。
    ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネともよばれます。やはり「新約聖書」の福音書に登場します。

     

    ヨハネはガリラヤ湖の漁師でしたが、イエスと出会い、その最初の弟子の一人となった人物です。弟子の地位としては高く、イエスとともに行動をしたことで、様々な場面に登場しています。
    また、伝承ではあるものの、使徒たちの中で唯一殉教しなかった人物とされています。パトモス島に幽閉された時期に黙示録を記し、エフェソスに戻ってから福音書を記したといわれています。

     

    伝統的な教会では、ヨハネが記したものとして、「新約聖書」の中の「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの手紙一」、「ヨハネの手紙二」、「ヨハネの手紙三」、「ヨハネの黙示録」となっています。しかし、昨今の聖書学では別の見解を示していますが、その点は割愛します。
    では、なぜ使徒ヨハネがワインの守護神なのか、というと、「新約聖書」の福音書の一場面に由来します。イエス・キリストの弟子であるがゆえの迫害があったヨハネですが、毒入りのワインを渡され、何事もなく飲み干しました。この場面に由来してワインの守護神となったそうです。

     

    最後のヨハネは、時代が大きく異なり14世紀のネポムクの聖ヨハネです。
    おそらく前の2人のヨハネと比較すると圧倒的に知名度が低いといえるでしょう。
    ネポムクの聖ヨハネはチェコ語で「Svatý Jan Nepomucký」といい、ボヘミアの司祭です。聖ヤン・ネポムツキーとも呼ばれます。

     

    南ボヘミアのネポムク出身で、父親はこの村の村長を務めていたヴェルフリンといわれます。一説ではドイツ系ともいわれますが、詳細は不明です。プラハで司祭になり、最終的にプラハ大司教の総代理まで務めるまでになりました。

     

    ネポムクの聖ヨハネがワインの守護神になったのは、ヨハネの殉教が関係します。
    当時のボヘミア王はヴァーツラフ4世で、カトリック教会と対立関係になっていました。この対立関係の原因については特定されているわけではありませんが、有力な説として王妃の告白問題があります。

     

    これは、当時、宮廷の聴聞司祭だったヨハネですが、司祭として知りえた王妃の告解の内容について、王に明かすことを拒みました。これで王が怒り、ネポムクの聖ヨハネは拷問を受けることになったといわれています。
    その結果、ネポムクの聖ヨハネは1393年3月20日に落命しました。遺体はカレル橋の上から投げ捨てられ、翌月にヴルタヴァ川の川岸で発見されました。
    拷問の後に溺死させられたようでした。

     

    しかし、奇跡が起きました。
    18世紀にネポムクの聖ヨハネの列聖調査が行われましたが、そのときに、ヨハネの舌が腐らずに残っていたというのです。奇跡と認められた出来事でした。
    聖職者や水難からの庇護者として船員や橋の守護聖人としても崇敬されつつ、さらに、水を祝福してワインにするとまで考えられ、ワインの守護聖人としてあがめられるようになりました。

     

    3人のヨハネは、それぞれの場面で、キリスト教の歴史に名を刻んだ人物といえます。
    名前だけが共通するわけではなく、ワインという共通項で歴史を見ながら、そして今夜もワインを飲むのはいかがでしょう。もちろんプレゼントにもワインです。

     

  • ワインの守護聖人・聖キリアン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインの守護聖人の1人・聖キリアンについて語ります。

     

      

     

    キリスト教の布教範囲の拡大にともなって、ワインとパンがかなり重要になってきました。

     

    【過去記事】  
    「キリストの血」とワイン
    聖体拝領 ・ワインとパン

     

    そのため、キリスト教文化の世界にはワインの守護聖人とよばれる人を多く輩出してきました。少なくとも、そのように呼ばれたという記録だけで見ても、最低50人には達するといわれているほどです。
    日本では稲作の豊作に対して稲荷社への祈願というのがありますが、西欧でもブドウ農家がワインの守護聖人に豊作を祈願したともいわれています。

     

    そんなワインの守護聖人の一人が聖キリアンです。

     

    ドイツのフランケン地方でワインの守護神と呼ばれる聖人です。
    フランケンというと、日本では英国の小説家・メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン(Frankenstein)」を想像してしまうかもしれませんが、この名称は、ゲルマン民族のフランク人に由来するものです。
    また世界史の教科書で登場するのは、国名のフランク王国でしょう。この国は現在のフランスとドイツの起源になった国で、フランク王国の建設は西暦481年、民族としてはゲルマン民族になります。
    当初のフランク王国は、ライン下流域から今のベルギー、北フランスを中心とした国で、徐々に現在のドイツの地域へと進出していきました。特にライン中流域からマイン川に沿って大規模な移民が行なわれました。
    このときに部族国家が生まれるとともに、ドイツ地域支配の拠点となりました。

     

    このゲルマン民族の大移動によって、ドイツの各地域にそれぞれ定住する民族は、西南ドイツのアレマンネン、北ドイツのザクセン、中部ドイツのテューリンゲン、東南ドイツのバイエルン、北ドイツ沿海低地地方フリ-ゼンなどの諸部族となりました。現在のドイツの各地域の差が色濃く出てているのも、ここに起源があるといえるでしょう。

     

    この地域の部族国家はフランク王国へ従属化し、最終的にカール大帝(768~814年)によって完成します。これは同時にキリスト教の布教と一体化したものといえました。

    こんな時代を背景にして、フランケン地方では、キリスト教の布教をワインの守護聖人・キリアンが開始しました。

    聖キリアンはブドウの栽培を奨励し、7月の殉教日の祝祭がワイン祭りとして行われるようになりました。7月の第一土曜から17日間にわたって行われるワイン祭りで、かなりの規模のものとなりました。

     

    キリスト教の布教に伴うことでいえば、聖キリアン以降に「ドイツ人の使徒」と呼ばれる宣教師ボニファーティウスがドイツ各地へと出向いていきました。拠点はマインツで、754年に殉教しました。まさにこの拡大こそが、フランク王国の支配圏拡大と一体の過程というべきものでした。

     

    しかし守護神と呼ばれる聖人がいる一方で、血なまぐさい宗教戦争も起こっていたことも事実です。

    ゲルマン人すべてはキリスト教を快く受け入れたとは限らず、拒んでいたのが北ドイツのザクセンでした。そのためカール大帝との抗争をザクセン戦争と呼び、30年以上に渡って続けられたのです。しかし、カール大帝側が武力で平定することとなり、同時にこれはドイツでのキリスト教布教の完成形になったことも意味します。

     

    欧州の戦争は古代より多くあり、その悲惨さについてはあまり認識ないかもしれません。

    しかし、このザクセン戦争ではザクセン人の捕虜4,500人が処刑された悲惨なものでした。キリスト教の「聖戦」だといえるものの、日本人には馴染みがないので、平和とキリスト教との関係から見ると不思議な感じがしなくもありません。この欧州での戦争の悲惨さでいえば、例えばのちの30年戦争なども挙げられますが、今回は割愛です。

     

    とにかく、ワインの守護神のおかけでキリスト教とともにブドウ栽培が広がり、現在のワイン文化に繋がるとしたら、それには敬意をはらいたくなります。だから今夜もワインで乾杯!

     

  • ウィーン郊外のホイリゲ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はホイリゲについて語ります。

     

     

    ホイリゲをご存知でしょうか?

    ドイツ語では「Heuriger」、定冠詞を付けて「die Heurige」ですが、ドイツでも本場のバイエルンや隣国のオーストリアでは「da Heiriga」や「da Heiricha」などと表現します。
    日本語で表現しようとすると、「ワイン酒場」としかいいようがありません。ただし、単なる酒場ではなく、ワイン製造元の酒場で、自家製ワインを提供する店となります。

     

    ワインがあくまで主役のため、つまみ類は簡単なものが多いといえます。家庭料理のようなもので、気取った料理はほとんどありません。
    提供されるワインは白ワインで、いわゆる「新酒」です。

     

    もともとこのホイリゲは、「今年のワイン(der heurige Wein)」が語源といわれています。今年製造された新しいワインという意味と、それを提供する簡易酒場という意味が含まれているのです。
    そのため、ブドウ栽培とワイン酒造のところが営業する店舗ですから、都市中心部にはありません。郊外での楽しみです。

     

    オーストリアの首都・ウィーンは欧州を代表する都市の一つですが、東京とは異なり、都市の中心部から郊外へと向かうと、すぐにのどかな風景に出会えます。有名なのは「ウィーンの森」でしょう。
    ウィーン市内から郊外に向けて森林地帯があり、この広大なウィーンの森の内外にホイリゲは点在しています。
    ウィーンの市内でもホイリゲ地区があるほどです。

     

    Wikipediaを見ると、17世紀後半にオスマン帝国との戦争でウィーン市内ではワインを入手しにくくなったことから、ウィーン郊外の農家に自家製ワインを買い出しに行くようになったのが起源とあります。なんだか後付のような説ではあります。
    ただ、神聖ローマ帝国皇帝・ヨーゼフ2世により、農家が自家製ワインの販売の許可が得られたことによって広まったのは事実だと思われます。この年代はオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の時代ですから、おそらくこの頃からホイリゲが誕生し、ウィーン市民も利用するようになっていったのでしょう。

     

    ビール文化のドイツ語圏の中で、ホイリゲは気軽に飲めるワイン文化が根付いたもので、とても陽気な空間です。
    音楽の都・ウィーンのもうひとつの側面を見ることのできる場所であるのは事実です。フランスワインとは異なるバイエルンからオーストリアの新酒ワインを堪能するのも良いのではないでしょうか。ただし、これは現地へ行かないと分からない世界かもしれません。
    取り急ぎ、プレゼントのワインは国内のシエル・エ・ヴァンで、ホイリゲはウィーンへ。

     

  • ザグロス山脈とワインの歴史

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    イランのザクロス山脈とワインについて語ります。

     

     

    イランのザグロス山脈で見つかった紀元前5400~同5000年の遺跡は、ワイン造りの化学的痕跡として最古といわれていましたが、のちにジョージアで発掘された陶器の壺により、最古の座を奪われました。
    しかし、約7000年前にイランでワインが製造されていたことは事実のようで、これはかなり凄いことだといえるでしょう。

     

    ザグロス山脈は、イラン高原の南西にある山脈で、イランの南西部から国境がイラク、トルコに連なっています。最高峰はザルド山です。
    地質は白亜紀から第三紀の堆積岩が主で、標高は海抜3,000m超の峰がいくつも連なっています。しかし、山脈すべてがそれだけの標高を誇るわけではなく、山脈の東南部分では海抜1,500m以下になっています。

     

    この山脈には塩湖が多く存在します。
    また、歴史的にも注目すべき点が多くあります。

     

    武器、馬具、装身具、容器、祭器などが出土しています。ルリスターン青銅器で、アケメネス朝ペルシャの首都・ペルセポリスの遺跡があることでも知られています。
    古代ペルシアの大動脈ともいうべき道路も、ザグロス山脈の中央を通過していて、ペルセポリスからエクバタナへと道路が続いていました。

     

    古代オリエントを統一したペルシアの中心部らしく、ワインの歴史もそれだけ古いということなのでしょうか。
    日本では馴染みのないザグロス山脈ですが、これらの歴史的背景を知ると、興味もわいてきます。

     

    今日はそんな古代オリエントに思いを馳せて、ワインで乾杯!

     

     

  • インダス文明より続くブドウ栽培

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインの原料であるブドウの歴史は古く、今回はインドのワインをインダス文明の流れから語ってみようと思います

     

     

    インドとワインという結びつきですが、あまりイメージできないかもしれません。それでも、現在のインドでは、一人あたりのワイン消費量は9mlです。
    インド憲法で、禁酒があることから、ワインは無縁のイメージがあり、多くの州で禁酒が進んだことから、インド政府はワイン農場を食用ブドウやレーズンの生産へと転換することを奨励したこともありました。
    しかし、その後に国際的な変化に応じ、インド・ワイン産業も復活してきました。

     

    そもそも、インドでのブドウ栽培の歴史では、インダス文明の時代にまで遡ることができます。
    ブドウはペルシアから持ち込まれたようです。

     

    インダス文明といえば、現在のインド・パキスタン・アフガニスタンの国々の地域で、インダス川とガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明です。
    インダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間の期間に栄えた文明で、遺跡の範囲は広大で東西1500km、南北1800kmに分布しています。

     

    ワイン生産については、紀元前4世紀頃からのようです。
    ただ、当初はブドウ栽培の目的としては、食用か、ジュースの生産が主目的であったと考えられています。
    ブドウ原料のワインについては、マウリヤ朝の王チャンドラグプタの食事を提供していたカウティリヤの記述に見られます。

     

    ちなみにインド国内のワイン生産地域は、地理的特徴そのままで、気温・湿度が高く、ブドウ品種は様々だといいます。

     

    なかなか日本では一般的に知られないインドとワインの関係なので、また改めてインダス文明より続くブドウ栽培から、現代のインド・ワインまでを語る場を設けたいと思います。

     

  • ジェロナ・グラ Grünberg

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ポーランドとワインについて語ります。
    ポーランドというと、最初にイメージするものは、少なくともワインではないでしょう。

     

    もしかしたら、アウシュヴィッツかもしれません。

     

     

    アウシュヴィッツのビルケナウ強制収容所(ドイツ語では Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語では Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、1979年に世界遺産リストに登録されていますが、いわゆる「負の世界遺産」といえるでしょう。
    現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に作られた施設で、収容されていたのはユダヤ人だけでなく、政治犯、ジプシー、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人等々でした。ピーク時にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されていたといわれます。

     

    ところでポーランドですが、ワインの消費量が増えているそうです。
    ところが、ポーランドはブドウ栽培に適した場所ではありません。

     

    ポーランドで唯一の例外地域がルブシュ地方のルブシュ県(Województwo lubuskie)です。
    ポーランド西部の県で、ドイツのブランデンブルク州との国境線沿いにあります。
    このルブシュ県にジェロナ・グラがあり、ここにはワイン博物館もあります。

     

    ジェロナ・グラはポーランド語で Zielona Góra、ドイツ語では Grünberg(グリュンベルク)です。「緑の山」という意味で都市名になっているようです。

     

    ポーランド国内で白ワインが作られているのは、マゾフシェ地方のヴァルカとこのジェロナ・グラだけです。
    ジェロナ・グラの最初のワイナリーは1314年に建てられたといいます。

     

    ワインとの関係はやはりキリスト教が関係しています。
    1250年からパラディジ修道院で、聖職者らがワインを製造してきたようです。ジェロナ・グラだけで約2,500箇所もブドウ畑があったそうです。

     

    この地方で最も有名なワインといえば『モンテ・ヴェルデ』(Monte Verde)と呼ばれるものです。
    しかし、1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は共産主義時代でした。ポーランド人民共和国はポーランド統一労働者党(PZPR)が寡頭政治を敷いていた時代でした。この時代にはワイン生産は減産されていました。

     

    復活への道は、1989年6月18日の総選挙でした。
    この選挙でポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府が成立しました。これにより民主化が実現し、ワインも復活したのです。
    ところが、ジェロナ・グラのワイナリーは1990年代初頭には閉鎖してしまい、現在はジェロナ・グラでワインそのものは生産されていません。それでも毎年、ジェロナ・グラ・ワイン・フェスティヴァルが市内で開催されています。

     

    ポーランドはアウシュヴィッツだけではありません。
    このジェロナ・グラのあるルブシュ地方は国境線に従って南北に広がり、ドイツとの関係が色濃く残る地域です。ユネスコ世界遺産に指定されているムジャクフ景観公園もあるエリアです。

     

    ポーランドのワインを飲みに、誰かを誘ってみたらいかがでしょうか?
    その前に、ワインをプレゼントして、一緒に旅してくれるかどうかを打診するのも良いかもしれません。そのときのプレゼント用ワインは、シエル・エ・ヴァンで探して下さい。

     

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